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解放区

自由の裏路地で魂が カサカサのまま干からびて
五寸釘で君を呪うくらいなら
僕の名をそっと呼んでくれよ
指で何度も頬骨を撫でて

自由の裏路地で悲しみが したり顔で喚き散らして
コメディのキャストじゃ足りないなら
明日ちょっとだけ顔を貸すよ
笑えなくなっても
指で何度も頬骨を撫でて

「自由の裏路地」という言葉についてずっと考えている(自分で書いた言葉だけど)。僕たちがよく使う「自由」の裏で、一体何が抑圧されたり、居心地の悪さを感じていたり、歌詞にあるように悲しんだり、ここには書けない様々な想いを抱えているのだろうか。

 そうした風景を想像したり、その風景の前で緊張したり逡巡したりしなければ、「自由」というのはただの野放図であり、無責任な言葉に成り果ててしまう。なんでもありが「自由」なのではなくて、誰かの「自由」をも守ることが「自由」には含まれている。そこに生じる難しさを引き受けることもまた、「自由」を「自由」たらしめていると僕は思う。

 先人たちが広げてきた「自由」、獲得してきた「自由」のうえに僕たちは暮らしている。その「自由」を守り、時代に合わせて点検したり、未来に向かって拡張することもまた、僕たちの役割だと思う。何よりそれは社会ためだけでなく、自分のためでもある。

 「自由」について問うための歌でもある、と。