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原色オジイ図鑑

Vol.4 前世が牛の爺

「ファッション=服装」は難しい。

 というのも、衣服には防寒などといった機能的な役割とは別に装飾としての役割が纏わりついているからで、装飾には金銭的な成功の度合い、属しているコミュニティと文化、性格、衣類選びにおける才能やセンス、その他、様々な情報が付属している。

 ゆえに、例えば、豪奢なレストランや高級ホテルのバーにはドレスコードという厄介な決まりごとがあって、ジーンズにロックバンドのオフィシャルTシャツを合わせ、サンダル履きで出掛けると入店を断られることがある。

 そういう場面ではナニクソ!と怒りを丸めてピッチャーマウンドからレフトスタンドへ投げ捨てたい心持ちになるが、レストランの側に立てば、高級な調度品などを集めコンセプチュアルに設計施工した空間が、ラフなアメカジでグズグズに溶解してしまう恐怖が想像できる。何より、俺は数千円では事足りない高価なディナーを稀に食べる際、はっきりと「高いなぁ」と念じており、そのような場違いな食事客を恒常的に認めるとネガティブな念やフィーリングが店内に充満して洒脱な空気を濁らせる可能性があり、そうした可能性は俺の着ている衣服にしっかりと表れている。

 ドレスコードはさながら、厄除けだろう。場自体に拒まれているのだから、アメカジのまま帰る以外に仕方ない。不本意だとしても。

 というわけで、衣服に関する悩みは尽きない。

 そもそも服装で人間を判断するのはどういうことなのか、という問いもある。しかし、衣服の果たしてきた装飾的な役割を思うと、好む好まざるに関わらず、原初から衣服には場やコミュニティの親和性を高めるたり、秩序を保つための役割があったのだろうと俺は想像して、全力で否定したいが不可避かもしれない、と、アンビバレントな想いに引き裂かれる。原初の防寒具としての毛皮も、しばらくすればグループ内のヒエラルキーを表す何かになり得ただろうし、アミニズムのような信仰と結びついて、何か特別な意味を持つ素材も出てきたことだろう。というか、何かを身に纏うというという行為自体が、人間にしか想像し得なかった「神聖」みたいな概念と分かち難くがっぷり四つなのかもしれない。

 根本の水深が極めて深い問題を、くるぶし丈くらいの俺の想像力で練り上げた妄想はさておいて、もっとカジュアルに、今日は何を着ようかな的な悩みも尽きない。

 気がつけばフード付きのスウェットにフードのある上着を重ねてしまって、首裏でフードが大渋滞を起こしている。言うならば餃子をもう一度餃子の皮で包んだみたいな奇矯なフォルムになってしまうことは日常茶飯事で、キャワタンだなぁと思って買ったセーターに袖を通してドヤ顔でロック雑誌の取材を受けたところ、店頭で指をさされて嘲笑されるということがあって凹む。

 もしかしたらファッションセンスがないのかもしれない、という自省を常に胸のうちに抱いているが、それでも外出の際は、持ってないならないなりのセンスを発揮して洋服を選ぶ以外になく、このパンツとこのシャツは合わないな、もうちょっと濃い色の上着が欲しいな、と自ら思案して、やってゆくしかない。

 そんなことクヨクヨを考えながら自転車に乗っていると、百メートルくらい向こうから、見るからに背の高い、ヒョロッとした面長の爺が歩いてくるのだった。背丈が百八十センチ以上はありそうな爺だった。

 経済成長によって栄養状態が良くなり、日本人の平均身長が伸びたという統計があるらしい。その真偽を判断する能力は持っていないが、ここでは真であると断定して話を進めると、その場合、今後は高齢者たちの平均身長も高くなってゆくと想像される。なるほど、海外に出かけたときのことを思い出せば、街角やカフェに巨大な爺さんが時折佇んで居たような気もする。

 俺の行く先の歩道をこちらに向かって歩いてくる高身長の爺さんも、今現在みたいな視座から眺めれば妙にデカいけれども、これから普通になってくるかもしれない。と思ったけれども、高身長は別として、爺さんからは奇妙な何かが発せられているのだった。

 まず、全身が黒尽くめであった。

 昼間に全身が真っ黒というのは、一般的な爺のファッションと比べると、なかなかなことだと思う。

 けれども、もしかしたらファッション関係、とりわけモード系の衣服を取り扱う仕事に就いていて、突き抜けたセンスを駆使してパリコレよろしく街頭で歌舞伎あげているのかもしれない。そういえば、歩き方もどこかしゃなりしゃなりと、ランウェイを歩くファッションモデルをスロー再生したようでもある。

 爺との距離はグイグイと縮まっていった。ペダル一漕ぎごとに、爺からの妙な威圧感が増していった。比例するように、何かが変だなという気持ちも増していった。

 すれ違い様に爺の衣服に目をやると、全身真っ黒の黒さが、革製品に由来するものであることがわかった。

 黒い皮のシャツに黒い皮のジャケットを羽織り、黒い革のパンツに黒い革靴を履き、黒い革のハットを被っていた。全身黒革ずくめであった。

 全身が革というのは、ドラゴンクエストの序盤くらいでしか体験したことのない人がほとんどだと思うけれど、実際に目にするまで、これほど不気味だとは思わなかった。全身が革特有のテラッとした、あるいはヌメっとした光沢に包まれている。おそらく一点一点は高価で、しっかりとしたブランド製品なのだろう。しかし、ビシっと全身に革製品を着込んでしまうと、それは牛を一頭買ってきて自宅で革を剥いでそのまま着た、みたいな狂気の片鱗がチラチラと顔を覗かせて、オシャレというよりはほとんど牛じゃないか爺さん、みたいな気持ちで、俺の胸はいっぱいになるのだった。

 家族が居るならば、あるいは俺が息子であるならば、お父さん、それでは牛と間違われてしまいます、せめてシャツはナイロンのほうがいいのではないでしょうか、と声を掛けただろう。

 もしや、爺の前世は牛なのか。

 あるいは、生まれ変わったら牛になりたいと思っているのかもしれない。

 ニヤつきながら牛爺について回想し、ショッピングモールをプラついていると、通行人からの妙に冷たい視線を複数感じた。場ちがいを嗜めるような、目で何か合図を送られているようでもあった。

 自宅に戻ってから鏡の前に立つと、着ていたスウェットの前後ろが逆さになっていた。社会の窓に設えてあるジッパーも半開であった。

 ファッションは難しい。


イラスト:コバヤシカナコ