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わきまえていないのは #3 追記

 Moment Joonの『Passport & Garcon』について、音楽的な視点の話も少し追記させてください(申し開きともいう)。

 彼が「HIP HOPアーティストであること」については、疑いの余地が1ミリもありません。放送のなかで「HIP HOPの外側からの言葉」というようなことを言いましたが、それは「彼はHIP HOPのアウトサイダーだ」という意味ではないんです。

 「俺こそがど真ん中である」というラッパーとしての矜持。それとは別に相対的な「ど真ん中」というのがおそらくジャンルにはあって、HIP HOPの真ん中がどこなのか判断する物差しを僕は持っていません。ロックであれ、HIP HOPであれ、どんなジャンルでも「真ん中」は常に関わる人たちの様々な想いの総体であり、時代によってうつろう共同幻想みたいな場所なのではないかと感じます。そういう意味では空洞なのかもしれません。「ない」のかも。

 何らかの愛を語るとき、愛ゆえの嫌悪を語るとき、自分が自分のまま自分のことを抱きしめられないように、俯瞰の視点(他者の視点)が必要になると思います。ど真ん中の表現をしながら、カッコ付きの「ど真ん中」について眺める、それは外側からのアングルを持つというか。

 HIP HOPという表現のど真ん中で、HIP HOPへの強烈な愛が込められているがゆえに(アジテーションも含めて)、作品全体を通して外側からのアングルを僕は感じます。

 というか、そうしたアングルが、彼の表現のカッティングエッジな部分に繋がっているように感じます。HIP HOPという表現のみならずポップミュージックの、ひとつのエッジ=先端に彼はいる。作り手の多くは表現や時代のエッジに立ちたいんですけれど、簡単なことではないんです。

 作品のなかで用意された外側と内側というようなリリックの立て方は複雑で、僕はなんども揺さぶられます。もちろん、揺さぶるように書かれているし、構成が練られています。そして、眼前に突きつけられる現在=リアルがある。HIP HOPへの愛は様々な「疎外」と無縁ではなく、絡み合っているし、そこから抜け出す「蜘蛛の糸」的な要素も持っている。ゆえに作品を表するときに「外」という言葉は迂闊に使ってはいけない言葉なのだけれど、宇多丸さんへのリリックを経ても、ある種の客観や俯瞰、アウトサイドというよりは内と外を行き来して揺さぶる「エッジ」からの視点が、この作品の根幹にはあって、強さとユニークさの源泉であるように思います。

 この時代を、日本を、強烈に書き記した作品でもあります。ケンドリック・ラマーにピューリッツァー賞が贈られたことを想起します。ジャーナリスティックであることの難しさは、同じ表現者(ミュージシャン)として骨身に染みて感じますが、それを実現したうえで「TENO HIRA」に着地する詩作のスキルが素晴らしいと思います(ゆえに最後まで聴いて欲しいです)。

 最後に、尊敬するアーティスト、パティ・スミスの言葉を引用します。

「私が考えるパンクの定義は『自由』。たんなる反逆ではありません。レッテル貼りや固定観念を拒否し、新しい表現を追究して自分の居場所を作る。それがパンクの精神です。ランボーもモーツァルトも、私にとってはパンクなんです」

 2020年を代表するアルバムのひとつです。