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原色オジイ図鑑

Vol.1 加速する爺

 職業柄、それなりの量の機材や荷物をカートに載せて移動することが多い。これはミュージシャンの厄介な性質のひとつだ。

 我々ミュージャンには、適宜練習やリハーサル会場などに楽器や機械類を持ち運ぶ必要がある。ツアーなどの巡業の場合は、着替えなども持ち運ばねばならない。そうした場合には大量の荷物をガラガラと引きずって、時には背中に背負って、満員のJR山手線や京急羽田線の乗客に迷惑がられようが、タクシーの運転手に嫌な顔をされようが、持って行かねば仕方のないものばかりなので、とにかく我慢する。

 本来は、満員電車での苦痛や正社員的な労働習慣、様々な社会的な規範や規約、といったものから自由になりたい、というか馴染めない、適合できない、という理由から、仲間たちと楽器を弾き散らかすことを生業に選んだわけなのだけれど、どういうわけか超満員の電車にハードケースのギターを抱えて乗車するハメになることが多い。

 まあ、一応のサクセスによって、そういう機会も減った。

 それは常時ポーターを雇って荷物を運ばせている、という成り上り的な状況ではなくて、単にバンド全体で楽器や機材を管理しているからであって、ツアーなどの際は輸送専門の業者や楽器担当のスタッフによって、まとめて輸送されるようになったからだ。

 ところが、身の回りの荷物に関しては、パンツやタンクトップなどを倉庫に預けるわけにもいかず、毎度自宅から持って行くしかない。思いきればできそうな気もするけれど、やはりスタッフに下着を運んでもらったりした場合、何か伝説のような話にされて、「アジカンのメガネの人はパンツや靴下も倉庫に預けて、手ぶらで移動するらしいよwww」と、魚民か鳥貴族あたりで若手ミュージシャンたちの笑いの種にされてしまうかもしれない。白木屋や笑笑が会場として選ばれることもあるだろう。そうすると、あいつはヤバいぞと噂になって、プロデュースなどの仕事が減ってしまう。それは困る。

 この日もスウェットや下着、咳喘息の薬、髭剃り、パソコン、コード類、読み切れない書籍、ティッシュ、ウエットティッシュ、などをカートに詰めて駅に向かった。カートは、エイヤと持ち上げて階段を昇るには少し重たかった。行けなくもないけれど、落としたら嫌な重さだった。

 以前、階段の上から下までカートを落としてしまい、知らないオッサンに直撃さすという事件を起こしたことがあった。ただ、オッサンは無傷、というか自分に直撃したことにほとんど気がついていないというリアクションで、俺はとても困惑した。カートの中ではパソコンがボキボキに凹んでいた。なんとも奇怪な事件でトラウマになり、カートを持ち運んでいるときは無理をしないと心に決めたのだった。

 というわけで、俺はエレベーターで改札口のある階まで昇ることにした。昇降口には丸っこいオバさんが丸っこく立っていて、その後に続いて並び、エレベーターの到着を待った。

 エレベーターは思っていたよりも順調なスピードで1階まで降りてきた。特に後ろに列ができるでもなく、割とゆったりとしたスペースを確保したまま乗れるなぁと安心して、丸っこいオバさんの後に続いてエレベーターに乗り込もうとした。そうしたところ、後ろから足の悪そうなヨボヨボの爺さんが杖をついてやってきたのだった。腰は「つ」の次に曲がっていた。

 まあ、特に急いでいるでもなく、混雑しているわけでもなかったので、俺は人並みのエチケットとして、爺さんに先を譲った。爺さんは杖をつくほどにヨボヨボであるからして、ゆっくりでもいいですよ、といった心持ちで右に避け、十分な通路を確保した。当然、爺さんはヨボヨボとエレベーターに乗り込む、と、思った。

 が、突然、爺さんはシャキッと背筋を伸ばして「どうもどうも!」と発し、アルファベットの「I」の字みたいな姿勢になって加速したのだった。信じられない速度だった。爺は俺の想像を裏切る俊敏な動きでヒョイヒョイとエレベーターに乗り込み、入り口に向き直ると、杖をついて再びヨボっとした。

 しばらく何が起きたのかまったく理解できなかった。呆然としているうちにエレベーターは改札階に着いて、お爺はヨボヨボと杖をつきながらエレベーターを降り、人混みの中へヨボヨボと消えていったのだった。


イラスト:コバヤシカナコ