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わきまえていないのは 4-4

 何からどう書けばいいのか、悩ましい。

 フジロックに参加するSIRUPの誠実なツイートを読んだ。コメントも付けてRTもした。自分の意見を表明したSIRUPだけに様々な言葉を引き受けさせるのではなく、ひとりの出演者として、俺も批判される立場を引き受けたいと思う。

 そしてGEZANのマヒトの切実な決意表明を読んだ。

「フジロックはネームこそ大きいが巨大な自治だ」とマヒトは綴る。フジロックはそういう場所だ。主催が必要以上のルールを設けずに、観客たちが場内で働くスタッフたちと共に育ててきたフェスでもある。ゆえに、個人情報の提供まで求める今年の感染症対策における無数のルールには驚く。

 日高さんと花房さんのコメントも読んだ。もちろん批判はあるだろうけれど、彼らは共に歩んできた観客たちを信頼することを選んだのだと俺は思う。ロックフェスの先駆けとして、ポストコロナのフェス文化に先鞭をつけようという意思もあるんだと感じる。

 アーティストとスタッフには2度のPCR検査(直前の検査は抗原検査でした。申し訳ありません。)が義務づけられている。陽性ならばもちろんのこと、検査の提出を忘れた場合でも入場できないという大変厳しいルールが敷かれている。検温以外で、このような検査が義務付けられたフェスは経験がない。

 随分とフジロック側に立った言葉だと思うかもしれない。実際にそういう甘さが自分にはないとは言えない。しかし、彼らの努力は周知されてもいいと思う。それとは別に、開催そのものの是非や感染症対策の方法についての議論は、自由に行われるべきだとも思う。


 何かを書かねばと思ってPCの前に座ったけれど、現在の自分について書くのはとても難しい。グズグズといろいろ書いては消し、また書いては消しを繰り返して随分と時間が経ってしまった。

 ただひとつ言えるのは、自分のことは弁護できないということだ。

 夜が開けて明日は、大阪城ホールのイベントにアジカンで出演し、俺はフジロックのステージのいくつかにも別のバンドで出演することになっている。どちらも今週のことだ。開催の判断は主催に預けて、どこか楽観的な気持ちで過ごし、ここ数週間の状況の変化に慌てふためいたまま、現在を迎えている。情けないが、そういうことだ。

 現場に積み上げられてきた熱意。そして、そこにある人生。一方で、自分がよく知る切実な思いとその活動が乱すかもしれない公共衛生。飛び交ういろいろな言葉を前にして、グワグワになっている。

 そうしたグワグワを振り切って、ステージでは全力を尽くす。自分もルールを守り、対策を呼びかける。が、こんな言葉は免罪符にはならない。どこでも読める常套句だと書きながら思う。開き直らずに別の責任についてもよく考えろと言われても仕方がない。アーティストは音楽だけやってればいいわけじゃない。

 だが、久しぶりのリハーサルのたかだか数時間で、自分が生き返ることも実感した。心の底から、これだ!という実感が溢れ出て、全身をめぐった。エゴイスティックな音楽への欲望が俺には少なからずある。

 同時に葛藤や重圧もどんよりと心の奥底にはずっとある。仲間たちともいろいろな話をした。どうしたらいいのか。簡単にキャンセルだと言える勇気も、あとは知らないと逃げ出す無責任さも持ち合わせていない。もちろん、出演することだけが責任というわけでもない。

 情けないが、正直な自分の胸のうちがこれだ。もちろん、感じていることや考えていることのすべてを順序立てて、ここに書く技量もない。整理されていない言葉もたくさん抱えている。

 そうした未整理の言葉を抱えたまま歩み、批判も含めて、多くの人の言葉を受け止めたい。もちろん、こうした変化に対応しきれない自分たちの活動も見直さなければならないと思う。そしてこれで終わりにせず、またどこかに書いたり、話したりしたい。

 と書いたそばから、受け止めて何か解決するのかとも思う。真っ先に書かれるだだろうその言葉は、本当にその通りで、ぐうの音も出ない。

 以前に書いたフェスに関する記事もここに貼っておく。毎度同じことを書いているような気もする。俺ははたして、進歩しているのだろうか。

 しかし、補償もないまま、どうやって多くの人や民間企業の行動を制限して行けばいいのだろうかと素朴に思う。

「予期できたのではないか」と言う言葉もあるかもしれないが、それもまた、市民どうしがお互いに向ける言葉というよりは、政府に向けるべき言葉ではないかと思う。感染症対策の責任は本来、彼らにあるはずだ。