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ドサクサ日記 3/18-24 2024

18日。
スーパーでレトルトのカレーを買おうとして、その値段にギョッとすることが増えた。自分が子供の頃はククレカレー(甘口)一択だった気がする。鍋で作ったほうが美味しいと当時は思っていたが、最近は種類も多く、駅のカレースタンドで食べるより豪華で美味しい。本格的なスパイスカレーもあったりする。新宿中村屋のインドカレーの「ベジタブル」が一番好きで、こればかり買って食べてしまう。

19日。
スタジオで歌の録音。SONYの800Gというマイクはやっぱり良いなと思う。SONYの製品は「クセがない」と言われることが多いが、世の中の録音機材はクセがあるものだらけで、そのクセ大合戦のなかから好みにあったクセを探すのが機材選びの肝だと言える。クセがない、ということもクセ大合戦のなかでは十分にクセで、クセがないことがクセみたいな、ちゃんと個性のあるマイクで素敵だと思う。

20日。
所用を片付けて渋谷へ。chef cooks meの解散ライブに参加。シモリョーは誰にも声をかけておらず、インスタでも「今回はメンバーだけで」とポストしていたけれど、「環状線は僕らをのせて」をやるならば最後に参加したい旨を伝えて、ステージに上がらせてもらった。とても豊かで素敵な演奏だったと思う。自然と体が緩んで、とても楽しかった。とりあえず、シモリョーは出来るだけゆっくりして、また次の歩みのエネルギーを蓄えてほしい。ニーチェは本当にお疲れ様。フロントマンの隣は、どのバンドでもなかなか過酷な席だと思う。ニーチェの柔和で知性的な性質と独特なユーモアがバンドの助けになっていたんだと俺は思う。そして最後のステージはサポートメンバーの活躍はもちろん、noniさんの跳躍なくしては成立しなかったなじゃないかと思う。未来を感じてワクワクしました。みんな、またね。

21日。
お金というのは不思議なもので、1000円や2000円であっと驚くことをしようと思うととても難しいが、1000人の1000円が集まると100万円になって、できることが増えたりする。様々な価値観の仲裁者としての貨幣を、価値そのものとして欲望してしまう社会の在り方には辟易とするけれど(そういう社会は、本来は数値化できない様々な価値のほとんどを数値で測ろうとする。例えば、学校受験のような評価のシステムも基本的には同じ向きの力でないかと思う。それが能力なのは間違いないけれど、絶対化したほうが社会的な価値をコントロールしやすいだけであって)、貨幣=お金にはパワーもエナジーも宿っていて、少しの思いを貨幣に変換して持ち寄るだけで思いもよらない助けになったりする。場合によっては、計測可能な価値の考え方のほうが、情念よりもフェアだったりもするから人間は難しい。

22日。
台湾のフェスのリハ。高雄に行くのは初めてでドキドキしている。台北と食の文化がどれくらい違うのかわらかないけれど、俺は豆鼓という調味料がとても好きだ。初めて食べたときは、せっかちな人がまだ形の残る豆の入った醤油を出荷したところ妙にコクがあって人気が出た、みたいな不思議な味だと思った。味噌溶けてへんやん、みたいなツッコミを入れていいのかと思っていた。製法は知らないが好き。

23日。
街に出かけると彼女守るマンの活躍に目が留まってしまう。彼らはいつでもぴったりと彼女を守っている。ほとんど守る必要のない平和な、平和な日本のなかでも極めて平和と思われる瞬間にも、守る仕草を怠らない。守られているほうも、守りすぎではないかと問うこともないのだと思う。ある一定の年齢からは見かけなくなるので、なんというか、そういう季節なのだと思うのだけど、妙に注目してしまう。

24日。
マウントを取り合う電脳世界に辟易する。物事の本質というと難しいけれど、細部にこだわって森が荒れ果てていくような風景に見える。そういうところにも社会はあるんだけれど、大文字の社会みたいな幻想の画面を消すと、切実でローカルな、社会と呼べるほどには先々が見通せない幾つもの関係が目の前に転がっている。それは生活と呼んだほうがいいのかもしれない。あるいは、人によっては生活のためのビジネスなのかもしれない。やらなければいけないことで山積みの暮らしのなかで、ときに大文字の社会みたいな引いた目線も持たないと、生活を見る生活の視点のなかに埋もれて息もできなくなるから、そっかみんなはこんなふうに生きているのかという覗き窓が、僕らをつなげたり救ったりもしてきた。そういう力は今後も続いていくと思う。だけど、負の力が強いなとやっぱり感じる。間違えた人、失敗した人、そういひとはまたやり直せばいいだけの話だと思う。内容については、集合知のような力で訂正しながら、みんなで意見を出し合って良くしてゆく、良さとは何かを考え続けてゆく他ないのではないか。いろいろ失敗してきてわかったのは、ローカルな言葉や態度、もっともローカルな身体には、人の心を生き返らせる力があるということ。ローカルには飛び地もある。音楽はそれを繋ぐ。