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わきまえていないのは 4-4追記

 アジカンが大阪城ホールでのイベントが終わった。このイベントが、この夏にアジカンが参加した唯一のフェスということになった。

 ネット上では、このイベントを叩いている人をほとんど見かけない。だからといって、安心とはいかない。ステージ上でも話したが、参加者たちは無事に帰れただろうか。いつかまた、何ひとつ緊張することなく、後ろめたさを抱えることなく、楽しめる場所で会いたいというのは心の底から思っていることだ。

 次はフジロックだ。もちろん、意気揚々とはいかない。依然として、心身の大部分をグワグワが締めている。

 俺はエセタイマーズというバンドの一員として「忌野清志郎 Rock’n’Roll FOREVER」に参加する。このバンドはタイマーズというバンドの偽物だ。偽物ではあるが、彼らをリスペクトし、精神を引き継いでいるつもりだ。

 アジカンは出ない。けれども、仮にどこかのステージにブッキングされていたならば、出演のキャンセルはできなかったと思う。それはソロでも同じ。「フジロックに出演したやつらは今後物申すな」的な圧を感じるが、出ても出なくても、俺はその言葉の対象だろう。

 キャンセルしないのは、顔が見えるからだ。

 そこで働くスタッフたちには、友人や知人も多い。組織自体の、もっと言えばフェスの存続がかかっていることを感じている。それに砂をかけて退場し、「今やることか」とは言えない。柵でもあるし、愛でもある。簡単な言葉では片付けられない繋がりがある。そうした繋がりのなかで生き、生かされてきたということも事実だ。

 感染拡大のことを考えて、様々な言葉を投げかける人の気持ちもよくわかる。多くの人が自宅で苦しんでいる。地元の人々の不安の言葉も重く響く。

 一年半、その言葉は様々なコンサートの現場で、濃淡を変えながら、俺たちのもとに届いていた。現場の努力は知っている。俺たちはどちらかと言うと、様々な興行の開催に慎重な姿勢で、こうした状況のなかでどうにかイベントを存続させるための知見を集める場としての機会を提供できなかった。11月からのツアーが計画できるのは、コロナ禍のなかでリスクと向き合い、政府と折衝し、ガイドラインを作ってきてくれた関係者と出演者たちの努力があるからだ。

 情けないことだが、俺はせめてニュースになって現場に矛先が向かうようなことにはなるまいと、自粛生活をしてきただけだ。リモートで音源制作に打ち込めるのも特権だ。その間も続けられた営みを思う。それなくしては、俺たちの現在も今後もない。

 だが、デルタ株の蔓延によってフェーズが変わってしまった。出演を引き受けた頃とは、何もかもが違ってしまった。しかも、たったひと月足らずで。

 心も身体も体勢も、対応できない。そういう働き方をしていたということだ。たまらなくなって、申し開きを書いているとも言える。情けない。どれだけ書き足そうが、エゴイスティックなお気持ち表明の誹りは免れない。

 ひとりの生活者として、ビクビクとして暮らしてきたのも事実だ。ウイルスに感染して、大阪のイベントも飛ばしてしまうという恐怖はあった。自分の属する音楽以外のコミュニティにかける迷惑も常に考えていた。ワクチンの接種はまだ受けられていない。職域接種ではなく、居住地域のルールにしたがって予約が取れたが、2回目の接種が終わるのは随分先になる。

 俺個人のことについては、いくらでも批判してほしい。


 俺たちは、俺は、今後、政権の批判をする資格がないのだろうか。そのことについて考えている。そうした言葉に、フジロックに参加した全てのアーティストが晒されるのならば、音楽に政治を持ち込むなみたいな精神の大成功だなと思う。そうした言葉が飛び交う風潮に積極的に加担しているという自己批判もあるが、本当にそうかなという疑問もある。

 俺たちは政権批判してはいけないのか。ダサいとか、格好悪いとか、そういうことなんだろうか。

 フジロックは自助ではないのか。

 生活、人生、場所、そうしたものを壊滅させないための、焼け野原にさせないための、自助ではないか。自衛ではないか。スタッフたちにとっては共助でもある。

 公助というのは、自助同士が衝突しあうことをさけるためにある。社会に法律がある意味を考える。俺たちの生活や自由は、常々、お互いの生活と自由と干渉しあっている。それを調整するために、政治がある。

 政権批判をしてはいけない理由がさっぱりわからない。自粛という自助に任せてきたのは彼らではないのか。

 フジロックだけが叩かれるのは歪だと思うが、だからと言って他の業態を批判する気にもなれない。一万人が働く都市の大型デパートで営まれていることも、自助ではないか。それぞれに、働く手を止められない理由がある。 

 エゴイスティックな自助を貫徹するならば、俺は部屋にこもり、アジカンの事務所からも離脱してあとはなるように任せ、様々な関係を断ち切って、自分だけコロナに感染しないような生活も送れる。そこから、好き放題に誰かを言葉で撃ち続けることもできる。

 けれども、俺は関わり合う様々な人と会い、ともに働き、グワグワになっている。どうしたらいいのか、何が誠実な態度なのか、途方に暮れる。

 ダサかろうがなんだろうが、公助なくして、人流を止める術はあるのか。自助と共助で病床を増やすことができるのか。それができるのは、政府だけではないのか。

 そこのところを問い直さなければ、自助すら否定される人が増えるだけだと思う。「仕事は他にもあるだろう」だなんて、なんて冷たい言葉だろう。人の人生はそんなに簡単じゃない。

 一方で、この時期にフェスをやるということが、他の人の人生、生命そのものを危険に晒すかもしれないというのは、もっともなことだと思う。怒っている人がいるのも、その人の切実さや誠実さの表れだと感じる。そういうひとたちを否定するために文章を書いているわけではないということは、ちゃんと記しておきたい。

 後ろめたさが、ある。

 もう目一杯ある。

 それを抱えて、苗場に行く自分の、煮え切らなさというか、なんとも言えない残念な感じは、拭えない。そこはもう、本当に自由に撃ってほしいと思う。それこそが、俺たちが政治から逃れられないということの証だと思う。

 参加する人たちは十分に気をつけてほしい。参加しないというのも、ひとつの選択肢だ。そして、参加するならば、同志として、厳しい決意を持ってほしい。多くの人の人生に、自分の行動は関わっている、と。

 と、書きながら、違うような気もする。出演者のひとりとして、みんなに悩んでほしいだなんて思わないし、こんなこと言っていいんだろうかとも思う。

 清志郎だったらどうするだろうというのは、何度も考えた。けれども、俺は清志郎じゃない。偽物の清志郎でもなくて、自分の言葉で、身体で、伝えないといけない。そして返ってくる言葉を受け止めなければいけない。

 自分のことは肯定できない。思ってることを自由にぶつけてほしい。行き交う言葉を利用してそれぞれに考えるためのプラットホームくらいの役割しか引き受けられない。クソダサいだろう。

 しかし、もう一度書きたい。

 徹底的に自助に委ねられている。これを悪政と呼ばずして、なんと呼ぶのか。