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小説「升田のごとく」・第21話

 東京、千代田区のビジネス街。
 一流企業のオフィスビルが林立するエリアのほぼ中央に、ひときわ高く聳え立つ建物がある。
 帝国不動産株式会社の本社ビルだ。
 偉容を誇るその建物の最上階で、不動産業界の天皇と崇められる人物の執務室の分厚いドアが、恭しくノックされた。
 1月14日、金曜日。午後2時のことだ。
「会長。例のプロジェクトの広告案をお持ちいたしました」
 マホガニー製のテーブルの上に、数点のボードが並べられる。
 社長以下、重職たちが威儀を正して侍立する中、会長と呼ばれた男は椅子からゆっくりと立ち上がり、テーブルへ歩み寄った。
 そして、並べられたボードを眺め渡し、やがて、それらのうちの一枚に視線を留めた。
「おう!」
 感嘆の声とともに、そのボードを手にした会長は、顔を大きくほころばせた。
「升田幸三じゃあないか! いいねえ、いいねえ、素晴らしい! 升田幸三は素晴らしい!」
 そう言いながら、会長は、自分の執務席の後方の壁を振り返った。
 そこには、黒檀製の額縁が飾られており、その中には、太い筆跡が躍っていた。

「香一筋  升田幸三」

 同日、午後3時過ぎ。
 新冨エージェンシー本社ビルの3階。
 制作本部フロアの片隅の、増田耕造のデスクの上で、内線電話がけたたましく鳴った。
 受話器を取る、耕造。その耳を、興奮した大浜強志の大声がつんざいた。
「増田君か! やったぞ! 大殊勲だ! 君の作品が30社コンペを勝ち抜いたんだ! 君の作品が50億円を勝ち取ったんだぞーっ!」

 西川由木子を伴って、耕造は常務室へと向かった。
 かつての妻に、耕造はすでに自分の意思を伝えていた。
 この10日間、悩みに悩み抜き、考えに考え抜いたあげく、もはや揺らぐことのない強さを獲得するに至った、己の決心を。

 部屋へ入ると、喜色満面の大浜が歩み寄ってきた。そして大きな両手で鷲づかみするように、耕造の小さな手を握りしめ、何度も何度も上下に振った。
「ようこそ、我が社のヒーロー!」
 それから、傍らの由木子に目をやると、
「おお、西川君もいっしょか。新富エージェンシーの誇る俊英コピーライターのお二人にお越しいただけるとは光栄至極だ。まあ、掛けなさい」
 そう言って、二人をソファーへ誘った。
 秘書の渡辺彩子が入室し、3人分のコーヒーカップをテーブルの上に並べていく。
 大浜は、上機嫌だった。
「創業45年目。今日は、我が社にとって歴史的な一日だと言っても過言ではない」
 そして大きな両目を耕造の顔に向けると、
「その偉大なる歴史の扉を開いたのは、増田君、天賦の才に恵まれた君の活躍に他ならない。今回の君の功績を讃えるには、百万言を費やしても足りないだろう」
 そう言って、がっはっはっと嬉しそうに笑った。
 大浜の笑い声が止まるのを待って、耕造は口を開いた。
「常務。実は、お願いがあるのです」
「おー、分かっておる、分かっておる」
 大浜は言った。
「50億円のアカウントを獲得したことへの、報酬だな。分かっておる、分かっておる。4月の人事を楽しみにしていなさい。ビックリするような大昇進が、君を待っておるぞ」
「ありがとうございます。で、その大昇進のご褒美なのですが……」
「うん?」
「私ではなく、ここにいる西川さんに、あげていただきたいのです」
 その言葉に、大浜の顔から笑みが消え、怪訝そうな表情に変わった。
「どういうことだ?」
 耕造は答えた。
「実は、あの作品を作ったのは、私ではありません。西川さんが作ったのです」
 唖然とする、大浜。
 耕造は言葉を続ける。
「職場に復帰した西川さんは、別れた夫が仕事のできない駄目男になっていることを知りました。そんな私をよほど哀れに思ったのでしょう。彼女はコンペに臨む作品を2点制作し、そのうちの1点を私に譲ってくれたのです。私は彼女の好意に甘え、その作品を自作のものとして発表しました。しかし今日、あれがコンペを勝ち抜いたことを知ったとたん、私は自分の犯した不正の重さに気づき、罪の大きさに恐れおののき、もはや心は耐えきれず、この場で真実をお伝えすることにしたのです」
 話し終えると、耕造は上着の内ポケットから一通の封書を取り出し、それをテーブルの上に置いた。そして、ソファーから立ち上がり、常務室を出ていった。
 残された封書には、「退職届」の3文字が記されてあった。

 同日、午後7時前。
 閉店まぎわのモミガラ書房のガラス戸を、耕造は引き開けた。
「おお、増田はんか。こないな時間にどうしたのや」
 店の奥から、老店主が出てきて、言った。
「そうか。勝負に勝ったのやな」
 耕造は、答えた。
「はい、勝ちました。けれど、負けたのかもしれません」
 謎掛けのようなその返事に、老人は、とまどい顔をした。
「将棋に勝って、勝負に負けた? まるで、升田のような、せりふやなあ」
 耕造は、老人の顔を見つめた。そして、言った。
「モミガラさん、求人広告をお望みでしたね」
「おお、そや。作ってくれたんかいな」
「いいえ。もう、その必要はありません」
「はあ?」
「私が、新しい従業員です。一所懸命、働きます。どうぞ、私を雇ってください」


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