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小説「升田のごとく」・第12話

 自宅の電話が、久々に鳴った。
 12月13日の月曜日。休暇を取って、7日目の午後。耕造が受話器を取ると、相手は意外な人物だった。
「どーも、ご無沙汰してまーす。お体の具合はいかがですか」
 かつて耕造をチェンマイ旅行へ誘った広告プロダクションの社長、三沢俊男。その声は、いつものように軽く、滑らかだった。
「先ほど、御社の方へ電話を入れましたらね。増田さん、体調不良で先週からずっとお休みだっていうものですから。ええ、それでご自宅にご連絡を差し上げたってわけで」
 この自分に、それほどの急用があるのだろうか。訝りながら耕造が応答すると、三沢の声が大きくなった。
「ビッグニュースですよ。何と、50億円の広告キャンペーン。あの帝国不動産が、中央区のウォーターフロントエリアに超大規模のマンションを開発をするんです。ええ、もちろん、コンペ。電広を筆頭に、業界上位30社の広告代理店がシノギを削る、壮絶なコンペですよ。おたくの大浜常務、もう大変な意気込みでしてね。先週の金曜日でしたか、制作本部のスタッフ全員を会議室に呼び集め、猛烈な檄を飛ばしたらしいですよ。絶対に勝て。死んでもいいから獲れ、50億を、ってね」
 三沢の言葉は、耕造を少なからず驚かせた。宣伝費を50億円も注ぎこむプロジェクトなど、昨今の不動産業界では他に例があるまい。年商400億の新富エージェンシーがこれまで手掛けてきたキャンペーンは、大きいものでもたかだか数億の規模。50億は、ケタが違う。それほどのビッグチャンスであれば、大浜が躍起になるのも当然だろう。
「というわけでね、増田さん。勝負の鬼と化した常務は、制作スタッフ各位に通達を行った4のですよ。帝国不動産に対する提案は、広告代理店1社につき、1案と決められている。競争率30倍というこの極めて狭き門を是が非でもこじ開け、勝利の栄冠を勝ち取るために、当社のクリエイティブ企画案は、制作本部のスタッフ全員参加による社内コンペを行い、その選考の結果、最も優れたものをクライアントへの提出作品として採用する。社内コンペの実施日は、平成17年1月4日。つまり来年の仕事始めの日、午前10時より、各制作者が常務室においてプレゼンテーションを行うものとする。作品の出来不出来は、そのまま4月の人事考課に反映されるゆえ、制作本部の各人は万難を排して最良の企画立案を実現すべし!」
 つまり、正月休み返上で働けということか。いかにも大浜らしい強圧的な指示だなと、耕造は思った。30社もの広告代理店によるコンペ。その前に、60名もの製作スタッフによる社内コンペ。何とも、凄まじい話だ。
 電話の向こうで、三沢は熱っぽく話し続ける。
「御社の制作本部はもう、蜂の巣を突っついたような騒ぎです。常務の命令に、皆さん、慌てて動き始めましたよ。それぞれが、なじみのプロダクションを呼んで、打ち合わせをスタート。皆さん、そりゃあ、必死ですよ。ヘタなものを作って常務の逆鱗に触れでもしたら、減俸、降格、左遷が待ってますからね。でもね、裏を返せば、これほどのチャンスはありませんよ。もしも勝利の女神を微笑ませることができたら、増田さん、窓際コピーライターから一転、制作部長の椅子だって夢ではないでしょう。何たって、50億ですからね、50億。われわれ下請けプロダクションにとっても、またとないチャンスですし。ねっ、増田さん。私と組んで、やりましょっ。いっしょに、夢をつかみましょっ」
「窓際コピーライター」の一言にはカチンときたが、三沢の申し出は耕造にとってありがたいものだった。減俸、左遷などの処遇については、すでに大浜から言い渡されているこの身だ。もはや失うものなどない自分に訪れた、千載一遇の好機。耕造は、体の中が熱くなってくるのを覚えた。
「増田さんとは、長いお付き合いですしね。今は不遇な立場にいらっしゃるかもしれないけど、昔はバリバリ仕事をこなしてた。増田さんに、まだまだ広告クリエイターとしての実力があるってこと、私には良く分かっていますよ。あの旅行にお誘いしたことで、増田さんの人生を大きく変えてしまい、少なからず責任も感じています。だからこそ、今回の企画競争で、私を増田さんのパートナーにしてほしい。私は、増田さんといっしょに成功を収めたいのですよ」

 午後7時。中央区のウォーターフロントに聳え立つ、超高層ビルに耕造は到着した。
 エレベーターで最上階まで昇り、打ち合わせの場所に指定されたレストランの中へ足を踏み入れる。三沢はすでにテーブルに着いてビールを飲んでおり、耕造の姿を見つけると手を上げて席へ招いた。
 耕造もビールを注文し、二人はグラスを合わせた。
「われわれの成功を祈って!」
 グラスを空けると、耕造は眼下に広がる夜景に目をやった。地上200メートルからの眺望は素晴らしく、都心からベイエリアへ、無数の宝石をちりばめたイルミネーションの連なりがダイナミックなパノラマとなって輝き、光の波を描いて海に融けこんでいる。
 テーブルの向かいに座った三沢が、夜景の一角を指差して言った。
「あちらです。訴求商品は」
 耕造が振り向くと、そこには都市の灯に水面を輝かせた隅田川の緩やかな流れがあり、その先には縦横に走る運河に仕切られて、低い陸地が、まるで東京湾に浮かんでいるかのように見える。
「あそこに、60階のタワーマンションが3棟建ち並んでいる姿を想像してみてください。60階建てというのは、東京都内のマンションでは、過去に例のない高さです。しかも、それが3棟も、ですよ。総開発面積45577㎡、総戸数4342戸。最寄り駅から徒歩5分。銀座から2㎞足らずの場所に、これほどの規模を持つマンションが誕生するなんて、まさにスーパープロジェクトと呼ぶしかありませんね」
 そう話しながら、三沢は鞄の中から分厚いファイルを取り出し、耕造に手渡した。
「帝国不動産への30社コンペの要項から、当該物件の概要、設備・構造、間取り、交通・周辺環境、それに市場分析データまで、すべて揃っています。増田さんには、まず、これに目を通していただいて、それからですね、われわれ二人で制作作業を始めるのは」
 ずしりと重いファイルを受け取り、耕造は言った。
「ありがとう。でも、これ、出所はうちの会社だろ。よく手に入れたもんだな」
 三沢は、笑いながら答える。
「新富エージェンシーに出入りしているプロダクションの大半が、今回の社内コンペに関わっているんですよ。つまり、これと同じ資料のコピーが大量に出回っているわけでしてね。それを入手するくらい、たやすいことですよ」
「なるほどね」
 耕造も、つられて笑う。
 そこへ、ワインと料理が運ばれてきた。グラスを高く掲げ、二人は二度目の乾杯をした。
「われわれの栄光を祈って!」
 増田耕造に、勝負の時が訪れた。いよいよ、人生の反撃が始まるのだ。   

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