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小説「升田のごとく」・第7話

「骨には異状ありませんな」
 レントゲン写真を見ながら、医者が言った。
 柏駅から歩いて数分ほどのビル内にある、脳神経外科。診察室に呼ばれた耕造は、神妙な表情で話を聞いている。
「額に、打撲と裂傷を負っただけですよ。灰皿を投げつけられたわりには、軽症で済みました。あなたの額は、実に頑丈にできているようですな」
 ふさふさとした白髪と、ふくよかな顔。黒縁の眼鏡の奥に、柔和な笑みを浮かべながら、老医師は冗談まじりに話す。その様子は、いかにも善人らしい。
 この人なら、自分の悩みに耳を傾けて、相談に乗ってくれるかもしれない。そう直感した耕造は、今朝起きたときから考えていたことを、口に出して言った。
「先生。額は頑丈でも、私の心はひじょうに脆いのです。どうか、私の願いを聞いていただけませんでしょうか」
 そう切り出すと、耕造は矢継ぎ早に言葉を続けた。
 自分がウツ病に罹っていること。この5年間、病状が慢性化していること。会社を休みたくても、経済的な事情で休めないこと。仕事に臨んでも、集中力や思考力の鈍った頭の状態でミスを頻発させていること。それを周囲の者たちに咎められ、心はさらに重くなり、またもや失敗を繰り返してしまうこと。今回の額のケガも、実は仕事上の重大な過失が原因であること、等々。そして耕造は、告白の最後を、哀願するように締めくくった。
「先生、お願いです。私は、とにかく休みたいのです。会社の上司を納得させるための、診断書を書いてください。先生、どうかお願いいたします!」
 悲愴な顔で訴える、患者。その打ち明け話と嘆願をじっと聞いていた老医師は、しばしの間、沈黙した。やがて、穏やかな表情を優しく和ませると、彼は静かに口を開いた。
「分かりました。強度の打撲で、脳の神経もダメージを受けたことにしておきましょう。1か月間の通院加療と、自宅での安静療養が不可欠だと。とにかく、ゆっくり休みなさい。今のあなたにいちばん必要なのは、たっぷりと睡眠を取り、心を負担のない状態に置いてあげることですよ」
 自宅へ戻ると、耕造は、さっそく会社に電話をかけた。上司の樋口ディレクターを呼び出すと、自分には1か月の休養が必要であるとの診察結果が出た旨、医師の診断書を郵送するのでそれで確認を願いたいという旨を告げた。樋口はこれを了承した。
 電話が切れると、ほーっと、大きく息をつく耕造。それは、年内の平穏な日々を何とか確保できた、安堵の気持ちから出たものだった。
 自宅に戻ると、時刻はすでに正午に近い。だが、昨夜の飲みすぎで二日酔い気味の耕造には、あまり食欲がなかった。居酒屋でよみがえった記憶の破片が、ちくちくと心に触れる。その刺激に誘われるように、耕造は階段を上がって3階へ行き、2つ並んだ部屋の右側のドアを開けると、中へ入った。
 そこは、かつて、娘の明日花が使っていた部屋だった。今は耕造が自分の書斎にしている、その机の上には、写真立てがひとつ置かれている。川原をバックに、由木子と明日花とハナが、楽しそうな顔をこちらに向けている。 
 その幸せの光景をじっと見つめていると、耕造の心はいつしか揺さぶられ、彼の想念はまたしても時の流れを逆戻りしていくのだ。昨夜の続きじゃないか。耕造は自嘲する。
 
 チェンマイの少女、リリーからの手紙は、家庭を崩壊させた爆弾だった。
 あれから3日後の夜、耕造が会社から帰ると、家の中には誰もいなかった。妻も娘も、彼女らの家具も衣類も本も何もかも、消え失せていた。さらに愛犬までもが、ドッグフードや食器といっしょに姿を消していた。テーブルの上に残された書き置きには、由木子の字で、こう記されてあった。
「私たちは、調布の実家へ行きます。離婚の手続きや慰謝料などの件については、後日、弁護士を通して連絡します」
 突然の事態に、耕造は驚き、慌てふためき、由木子の実家へ電話を入れ、自分が悪かった、反省している、お願いだ、戻ってきてくれ、やる直させてくれと懇願したが、彼女は冷たく電話を切った。何度も何度も電話をしたが、何度も何度も電話を切られた。許しを乞いに調布へ行ったが、門前払いをくわされた。
 結局、双方が弁護士を立てての協議となったが、由木子の離婚の意志は岩のように固く、もはや応じるほか方法はなかった。
 しかし、700万円という慰謝料の要求は、とても受け入れられるものではなかった。そもそも浮気をしたのは由木子が性生活を拒み続けたからだと主張し、粘り強い交渉の甲斐あって、何とか400万円にまで減額された。
 けれども、娘の養育費の件では、耕造も譲歩せざるをえなかった。明日花は母親と暮らすことを強く望んでいたし、それ以前に父親を嫌い、憎み、軽蔑していた。そんな娘でも、耕造にとって、自分が産ませた生命であることは厳然たる事実だ。彼女が成人するまでの9年間、毎月10万円を指定の銀行口座に振り込むという条件を、耕造は承諾した。
 だが、愛犬まで連れ去るとは、どういうことだ。ハナは、この自分にいちばんなついていたではないか。今すぐ、ハナを返せ。耕造は怒りをこめて言い張った。
 しかし、この件に関しても耕造は敗北した。あなたが朝早く出かけて夜遅く帰ってくるまでの長い間、ひとりぼっちで、ハナはどうするの? ごはんは、誰があげるの? 夕方の散歩には、誰が連れていくの? あなたが出張で何日間も家を留守にするとき、ハナはどうやって生きていたらいいの?
 死ぬほど悔しかったが、耕造に反論はできなかった。相手の言い分が正論だと、自分の弁護士にまで諭されて、どうすることもできず、彼は愛犬をあきらめた。
 それで、すべてが終わった。
 いや、それはまだ、終わりの始まりに過ぎなかった。
 その兆候は、一人暮らしの中に、少しずつ現われてきた。かけがえのない家族を失った、寂しさと虚しさ。無意味と化した住宅ローンの返済と無情な養育費の支払いがもたらす、苦しさと辛さ。眠れない夜と、無気力な日中が、だんだんと忍び寄り、とうとうそいつは、ウツ病という名の正体を現したのだ。
 部屋の中に立ち尽くし、耕造は自問する。
 終わりの始まりから、もうすでに5年が経過した。いったいあと何年すれば、終わりの終わりがやってくるのだろう? ひょっとすると、それはいつまで経っても訪れず、この自分を苦しませ続けるのだろうか?
 希望の光が、これから先の人生のどこかで、自分を照らそうと待ち受けている。そんな夢のような話を想像するのは、厚かましいことなのだろうか?
 分からない。自分には、まったく分からない。
 分かっているのは、ただひとつ。明日からしばらくの間、会社に行かなくても済むということだけだ。
 そう。とにもかくにも、平成16年12月7日火曜日。増田耕造は、1か月間の休暇を手に入れたのである。

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