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小説「升田のごとく」第22話(最終話)

エピローグ

 
 平成18年7月の、ある日の夕刻。
 神田神保町の表通りに面した大きな古書店で、一人の男が忙しそうに働いていた。
 彼の名は、増田耕造。
 1年と半年前まで、広告代理店のコピーライターを務めていた人間だ。
 年齢は、51歳。
 以前は、千葉県柏市郊外の戸建て住宅で寝起きをしていたが、今はこの店に住みこんでの生活を送っている。
 以前は、多額の住宅ローンを抱えていたが、幸いなことにその家が売れ、売ったお金でローンも完済できた。
 以前は、娘の養育費を毎月送金する義務を負っていたが、会社を辞めた退職金で、それもまとめて支払い終えた。
 そして以前は、ウツ病という難題に苦しみ、薬の服用が欠かせなかったが、いつの間にか、それもすっかり治った。
 今はもう、増田耕造に、これといった悩みはない。
 あるのは、この店で汗を流すことの喜びだ。
 古本屋の仕事は、まだまだ半人前だが、やりがいを感じている。
 こないだ開かれた古書市場で、『将棋馬法』という本を探し当てた。何でも、日本最古の将棋の本で、130万円の値打ちがあるらしい。モミガラさんがすごく誉めてくれ、大きな自信になった。
 将棋の腕も、ちょっとばかり上がったようだ。竹内師範の話だと、現在は5級くらいの棋力だそうだ。

 おや、お客さんが来たようだ。
 耕造は、応対に出た。
 そして、驚いた。
 店のドアから入ってきたのは、二人の女性だった。
 母親と、その娘。
 18歳になったばかりの、痩せて小柄な娘は、一匹の犬を抱いていた。
 耕造に向かって、少女は口を開いた。
「おじさん」
 感情も抑揚もない、無機質な声。
「私、もうすぐ外国へ行くの」
 そう言うと、少女は、抱いていた犬を床に下ろした。
 初めて連れてこられた場所に、犬はとまどっている様子を見せた。
 大きな耳と、長い胴体、短い脚。ベージュと白の体毛は、つやを失い、ところどころが抜け落ちている。かなりの高齢だ。
 床を嗅ぎまわっていた老犬は、やがて耕造の方へ顔を向け、鼻先を動かし始めた。
 そうして、数分。
 視力は衰えていても、老犬の嗅覚は健在だった。7年ぶりに出会った臭いを思い出し、視線の先におぼろげに映る人物が、昔の主人であることを老犬は確信した。
 ぺた、ぺた、ぺたん。ぺた、ぺた、ぺたん。
 短い脚で、老犬はのろのろと歩み、耕造のもとへたどり着いた。
 そして、オオーンと鳴いた。
 耕造は、かつての愛犬を優しく抱き上げ、嬉しそうに頬ずりをした。
「お帰り。ハナ」

 気がつくと、由木子と明日花の姿が消えていた。
 ハナを抱いて、耕造が表通りへ出ると、車が走り去っていくのが見えた。
 暮れなずむ夏の空へ、老犬がまた、オオーンと鳴いた。


(了)

 
  
※本作品はフィクションです。
作中人物として升田先生に実名でご登場いただくことにご快諾をくださった、奥様の升田静尾様、ご長男の晋造様に、あらためて御礼申し上げます。

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