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小説「升田のごとく」・第3話

 制作本部フロアのいちばん奥にある、常務室。その1つ目のドアを、耕造は恐る恐るノックした。
「はい。少々お待ちくださいませ」
 インターホンごしに応答したのは、軽やかな女性の声。しばらくすると内
側からドアが開かれ、常務秘書の渡辺彩子が耕造を出迎えた。
 この会社には珍しく、彩子は一流女子大を卒業している。歳は30を少し
越えたあたりだろうか。背は高く、濃い茶色に染めたセミロングの髪の下に
は、ほっそりとした色白の顔があり、やや切れ長の目がいかにも利発そうだ。
 鼻筋はすっきりと通り、口元はきりっと締まっている。清楚な顔立ちと好対照を見せているのは、肉感的な体つきだ。ダークグレーのダナキャランに身を隠してはいても、胸は豊かな膨らみを主張し、ウエストが絞られたスーツのデザインが見事なヒップラインを強調している。
 男好きのする女だ。入社して間もなく大浜強志の目に留まり、今もなお愛人関係を続けているという噂を、耕造も何度か耳にしたことがある。
「常務がお待ちかねですよ」
 笑みを浮かべて、彩子は言った。
 その微笑が、自分への冷笑ではないかと、耕造はふと思った。
 あーら増田さん、またいらっしゃったのね。今度はどんな失敗をやらかし
たの。どれくらい常務に叱られるの。私、おどおどした増田さんが常務にこ
っぴどくやられて、しおたれて帰っていく姿を見るのが大好きなの。お願い
だから、増田さん、今日もたっぷりと怒られてちょうだいね。
 常務秘書を前に、朝っぱらから自虐的な妄想に浸る、耕造。そのとき、奥
の部屋から、大浜の大きな声がした。
「増田はまだか!」
 弾かれたように耕造は直立し、ぎくしゃくとした足取りで彩子の脇を通り
抜け、2つ目のドアへ近づくと、ノックをした。

 部屋には3人の男がいた。
 正面のソファーに、常務取締役制作本部長の大浜強志。それと向かい合わ
せのソファーには、第1営業部長の原田勇吉と、その部下である第1営業課
長代理の岩崎健太。
「来いよ。座れ」
 大浜の威圧的な言葉のままに、耕造はソファーへと歩み寄り、岩崎課長代理の右隣に空いたスペースに腰を下ろした。そして、うつむいた。
 誰も、一言も発しない。それが、ただならぬ事態の生じていることを耕造に悟らせた。無言の重圧に押し潰されそうになりながらも、ここまで来てはもう覚悟を決めるしかないなと、彼は頭をもたげ、向かいに座った大浜に視線を向けた。しかし、目に映ったのは、常務の胸のあたりまでだった。
 大浜強志は大男なのだ。身長は190センチ近く、体重は120キロ以上ある。まるでプロレスラーの体格だが、学生時代はラグビーの選手だった。ポジションは、フォワードの最前列、左プロップ。彼の右耳がひしゃげたように変形しているのは、幾多の猛練習と試合のたびにスクラムを組み続け、相手の右プロップの横顔との間で何千回と摩擦を繰り返したからだ。
 大学を卒業後、新富エージェンシーに入社した大浜は、営業マンとしてスタートを切るや、異例の猛スピードで出世街道を驀進した。持ち前の圧倒的な体力と、男らしい風貌。天性の押し出しの強さは、仕事のチャンスの芽をことごとく金のなる木に育て、会社の利益と自らの昇進を勝ち取ってきた。34歳で営業部長、42歳で取締役営業局長。
 そして47歳の若さで常務取締役に抜擢された彼は、営業畑から一転、制作本部長の大役を任された。
 バブル経済の崩壊後、不動産広告を主力にして経営努力を重ねてきた新富エージェンシーは、この10年余りの歳月にますますその色彩を強め、今や100パーセントの不動産専業広告代理店として企業活動を営んでいる。ところが近年、このマーケットに他の広告会社も続々と名乗りを上げ、業界トップの電広までもが本腰を入れて市場参入を開始した。
 これまではクライアント企業からの指名受注を中心にやってこれたが、これからは数々の代理店との競合が不可欠になる。つまり、他社とのコンペティションに勝ち続けていかなければ、会社の明日はなくなるわけだ。
 競合プレゼンテーションを勝ち抜く力、それは広告クリエイティブの能力だ。もちろん、日々の営業活動を始め、マーケティングやプロモーション、メディアバイイングなど広告代理店の各機能がうまく働いてこそ、ビジネスは成就する。
 けれども、目の覚めるような斬新なアイデアが光る広告表現がなくては、世の中に話題を作り出すこともできず、広告キャンペーンの成功をクライアントに納得させることなど、とうてい不可能だ。なぜならば、クライアント企業もまた、同業他社との熾烈な競合環境の中で、自社の商品の売れ行きの向上に血眼になっているからである。
 だからこそ新富エージェンシーは、これから先、広告制作部門を強化していくという経営方針を打ち出した。将来の社長候補の最右翼と目される切り札、大浜強志を制作トップの重職に据えたのも、そのためだ。約60名の制作スタッフの、一人ひとりの勤労精神にカツを入れ、クリエイティビティー向上のための意識改革を行う指導者として、バイタリティー溢れるこの男はまさに適任だろうと。
 常務取締役制作本部長に就任して2年目を迎え、大浜強志は現在49歳。月曜日の朝一番に呼びつけられたコピーライターの増田耕造もまた、49歳。
 そう、この2人は同期入社なのである。
 今から26年前、本社の会議室で行われた新人研修。仲よく机を並べて受講した若者たちは、研修が終わると有楽町駅ガード下の安酒場へ行き、チューハイを飲みながら、未来の広告の夢を語り合った。確かに、そういう時代もあった。
 ところが、平成16年12月現在、2人の間には決定的な差がついてしまっている。
 大浜強志の体重は増田耕造の2倍以上あり、これは昔と変わらない。
 大浜強志の年収は増田耕造の5倍以上になった。これは、かなりの変化だ。

「増田。お前、今でもチューハイとか飲んでるのか?」
 部屋を支配する沈黙を破って、大浜が言った。
 突然の問いかけに、耕造はうろたえた。どんな通告を受けるのかとびくびくしていたところへ、よもやチューハイの話とは。だが、常務取締役の質問を無視するわけにもいかない。控えめな声で、彼は答えた。
「はい。会社の帰りに、時々。今はチューハイよりも、ウーロンハイですが……」
 実に滑稽で、屈辱的な答弁だ。緊張感に包まれながらも、心の中で耕造は舌打ちした。
 銀座の一流店で仕立てたエルメネジルド・ゼニアの高級スーツを身にまとった、この巨象のような伊達男は、ドンペリの味は知り尽くしていてもウーロンハイなど見たことも口にしたこともないのだろう。量販店で買ったジャケットがぴったりの、自分みたいな金欠人間のためにこそ、そんな飲み物があるのだと思い知らされているようなものだ。
「そのウーロンハイを、何杯くらい飲むんだ? 2杯か? 3杯か?」
「ええ……まあ……そのくらいは……」
 大浜の珍妙な質問は続き、何だこれはと訝りながら、耕造も返答を続ける。営業部長の原田と課長代理の岩崎は、黙ったまま、2人のやりとりを聞いている。
「ツマミは何品だ? 3品くらいか? 4品か?
「はあ……まあ……そんなところで……」
「それで、会計すると、4000円くらいになるか?」
「そこまでは行きませんね。まあ、3000円から3500円くらいの間で……」
 何という間抜けな会話だろう。いやしくも常務取締役制作本部長たる人間が、月曜の朝早くから自室に3人も社員を呼びつけて、まさか居酒屋の話題を持ち出すとは。ひょっとすると、この会合は何かの冗談なのかもしれない。そう思うと、耕造は何となく気分が楽になってきた。
 しかし、次の質問から、大浜の語調に変化の兆しが見え始める。どこか、確信犯めいたものの言い方に変わっていくのだ。
「そうか、そうか。3000円から3500円もあれば、じゅうぶん飲み食いができるのか。そいつは素晴らしい。ところでだな、増田。その飲食料金で、もしもマイホームが買えるとしたら、お前、どう思う?」
「はあ?」
 耕造は、呆気に取られた。飲食料金でマイホーム? この男は、いったい何が言いたいのだろう?
 だが、耕造の疑問をよそに、大浜は続ける。
「なあ、どう思う?」
 問いかけを繰り返され、耕造は困り果てた。まったくアホらしい質問だが、常務が相手では答えざるをえない。
「どう思う、と言われましても、それはもう、夢のような話としかお答え……」
「その通り!」
 大浜の口調がついに一変した。耕造の返答を遮ると、太い眉を吊り上げ、大きな両目をカッと見開き、持ち前の威圧的な声に、さらに強い怒気をこめて言葉を吐いた。
「まさに夢のような話だ! ところがこんな話を現実にした大馬鹿者がいる! おい、岩崎、例のものをこの大馬鹿者に見せてやれ!」
 事態の急変に、耕造はうろたえた。大浜の指図を受けた営業課長代理の岩崎が、素早い動作でビニールケースの中から、折りたたんだ一枚のチラシを取り出し、乱暴な手つきで耕造の目の前のテーブルの上に広げて置いた。
 それは、つい最近、耕造が制作したばかりのマンションのチラシ広告だった。府中市の多摩川沿いに建設が予定されている、全200戸の物件だ。クライアントは、グランド都市開発株式会社。新富エージェンシーの、得意先のひとつである。
 このマンションのモデルルームは、一昨日の土曜日にオープンしたばかりだ。ということは、前日の金曜日には各新聞の朝刊に折りこまれ、すでにこのチラシが配布されている。
 この物件広告の担当営業を務める岩崎が、細い目に怒りをこめて耕造を睨みつけながら、広げたチラシの中央部を右手の人差し指で激しく突っついた。そこには大きな文字で、こんな表記がされていた。
「75㎡超の3LDKが3050円より。86㎡の4LDKが3490円より」
 あああーっ! 耕造の口から心臓が飛び出しそうになった。価格の表記から「万」の文字が抜け落ちているではないか。何というミスだ。何という大失敗を自分はやらかしてしまったのだ。
 驚愕の表情を浮かべた耕造の顔から、みるみる血の気が失せ、まったくの蒼白になった。あまりのショックに口をあんぐりと開けたままの彼に向かい、追い討ちをかけるように大浜が言った。
「おかげさまで、モデルルームは大盛況だったらしいぞ。館内に入り切れない客たちが多摩川の河川敷にまで長蛇の列を作り、その先頭に立って大歓声を上げていたのは、ホームレスのグループだったとさ。何たって、4000円で家が買えて、おつりが来るんだ。日本中から人が集まったって不思議じゃないよな」
 この辛辣なせりふが聞こえているのかいないのか、耕造の表情は硬直したまま微動だにしない。呼吸をしているのかどうかも定かではない様子。それを楽しんでいるかのように、大浜はさらに続ける。
「まことにお気の毒なのは、クライアントさんだ。怒涛のように押し寄せる来客たちの列に向かって、チラシに書いた値段は間違いでした、たいへん申し訳ございません、どうぞお許しくださいませと、平謝りにつぐ平謝り。商談どころか、小便する暇もなかったらしい。結局、土曜は最後の最後まで、スタッフ全員で陳謝を続け、どうにかこうにかシャッターを下ろせたとのことだ。おちろん、翌日の日曜、モデルルームは閉館のまま。過労と心労で、担当の係員の方々の半数近くが寝込んでしまったという、最悪の週末地獄と相成ったわけだ」
 それまで凝固していた耕造の表情が、少しずつ解凍されていき、顔色がだんだんと赤みを帯びてきた。それとともに、両の目から涙のしずくがこぼれ落ち、開いたままの口からは嗚咽の声がもれ出した。
 しかし、それでも大浜は、責任追及の言葉を緩めようとはしなかった。
「さあ本題はここからだ。クライアントは確かに被害者。だが一番の被害者は、もちろん我が社でございます。相手が受けた大きな損失、それを超える大きさで、償わなければならぬのは、代理店の宿命なるぞ。さてもさっそく今朝いちばん、先様よりのクレーム通告。電話の主は誰あろう、グランド都市の開発の、販売部長の福山様だ。ウチの演じた大失態に、怒り心頭の部長様。今後いっさいウチとの取引、打ち切るからなとおっしゃった。ああ、それだけはご勘弁、ウチは路頭に迷います。なんでも仰せに従いますゆえ、なにとぞご寛恕くださいませと、精いっぱいの拝み倒し。説得努力の甲斐あって、それなら許さぬこともない。ただしこちらの提示する、要求すべて受け入れるなら」
 落涙と嗚咽の止まらない耕造をいたぶるように、まるで的屋の口上よろしく音吐朗々としゃべりまくった大浜は、営業部長の原田に視線を移すと、命令した。
「先方が要求してきた条件と、それに対して我が社が負担する金額を、説明してやれ、この大馬鹿者に」
 その言葉に頷くと、原田はソファーの右端で顔を泣き腫らしている耕造に向かい、冷ややかな口調で話し始めた。
「まず、当然ながら今回のチラシの訂正および刷り直し。これが30万部で、290万円。次に、第2弾目のチラシの制作費の全額負担。これも30万部で、380万円。最後に、新聞全7段広告の無料制作と無料掲載。これが、400万円。しめて1070万円の実損だ。まったく、大変なことをしてくれたな、君は」
 ハンカチで涙を拭いながら原田の話に耳を傾けていた耕造は、かすれた声で言った。
「どうも……申し訳……ございません……」
 その詫び言を聞きながら、原田はさらに冷たい声を追加した。
「先方の要求がもうひとつある。今回の脱字ミスを犯した当事者による、速やかな謝罪だ。いいね、増田君。さっそく今日の午後にでもグランド都市開発へ行き、販売部の福山部長に直接お会いして、丁重に丁重にお詫びするように」
 ほとんど聞き取れない声で、耕造は返事をした。
「はい……かしこまりました……」
 その耕造の涙声に、大浜が尊大な声を覆いかぶせる。
「増田。あの福山って男、昔から乱暴者で有名だからな。何をされるか、分からんぞ。死ぬ覚悟で行けや」
 耕造はもう、無言のままだ。相手の発言に反応する、気力のかけらもありはしない。
 そこへ、とうとう大浜が、とどめの一撃をくらわした。このタイミングを、ずっと狙っていたのだ。
「増田。もうすぐボーナスだな。住宅ローンの返済やら、娘さんの養育費やら、いろいろと入り用のお前にとって、まさに命の金だろう。だがな、増田。全く残念なことに、今回のミスでお前のボーナス査定は、たった今、ゼロになったぞ。つまりお前は、この冬のボーナスを一銭ももらえないってことだ」
 耕造に反応はない。大浜は続ける。
「お前は加害者、会社は被害者。加害者が被害者に賠償金を支払うのは、当然だろ。したがって、半年後の夏のボーナスも、ゼロ。自業自得だよな」
 耕造に反応はない。大浜はさらに続ける。
「これだけで済むと思うな。今後のお前の処遇については、来年4月の人事で発表する。どんな地獄が待っているか、楽しみにしてろよ。話は以上だ。とっとと失せろ」
 反応を示さぬまま、耕造はソファーから立ち上がり、ドアへ向かって足を踏み出した。
 その背後へ、大浜が最後の侮蔑を投げつけた。
「増田。別れたカミサンは今どうしてる? 優秀なコピーライターだったよな、彼女は。結婚退社したのがもったいないよ。彼女じゃなくて、お前が辞めれば良かったのにな」
 その言葉にだけは、ぴくっと反応し、耕造は部屋を出ていった。

 午後1時45分。耕造は日本橋のオフィス街を歩いていた。
 行き先は、グランド都市開発株式会社の本社ビル。目的は、欠陥チラシを
作り、先方のマンション販売業務に大きな迷惑をかけたことに対する謝罪だ。
 虚ろな目をし、とぼとぼと歩を進める耕造。その頭の中では、ひとつの想
念がぐるぐると回っていた。
 ……死んだら楽になれるかなあ。でもまだ死ぬわけにはいかないなあ。と
りあえず薬を飲まなきゃいけないなあ。黄色い薬が抗鬱剤のルボックス。緑
の薬が自律神経調整剤のドグマチール。ピンクの薬が睡眠導入剤のドラール。白い薬が精神安定剤のデパス。死ぬまで薬を飲み続けなくちゃいけないのかなあ。でもまだ死ぬわけにはいかないなあ。とりあえず薬を飲まなきゃいけないなあ。黄色い薬が抗鬱剤のルボックス。緑の薬が自律神経調整剤のドグマチール。ピンクの薬が睡眠導入剤のドラール。白い薬が精神安定剤のデパス。死ぬまで薬を飲み続けなくちゃいけないのかなあ。でもそれもいやだなあ。死んだら楽になれるかなあ。でもまだ死ぬわけにはいかないなあ……。
 大浜強志が与えた、厳しい叱責と通告。それが耕造の精神の内側に、ぐる
りと防御壁を形成し、もはや彼の心の内部は外界から閉ざされてしまったの
だ。耕造の思いは、堂々巡りを繰り返す。
 ……とりあえず薬を飲まなきゃいけないなあ。黄色い薬が抗鬱剤のルボッ
クス。緑の薬が自律神経調整剤のドグマチール。ピンクの薬が睡眠導入剤の
ドラール。白い薬が精神安定剤のデパス……。
 心は壁で閉ざされても、体は通いなれた道順を覚えている。歩くこと10
分、耕造はグランド都市開発の本社ビルに到着し、受付で用件を述べた。そ
して5階の会議室へ通され、時計の針がアポイントメントを取った午後2時
を指し示すのを待った。

 約束の時間から5分余りが過ぎたそのとき、会議室のドアが乱暴に開かれ
た。
 現われたのは、頭の禿げ上がった、でっぷりとした男だった。グランド都
市開発株式会社首都圏第三販売部長、福山英信。耕造とは初対面だ。50代
の半ばくらいか、近づいてくるにつれ、福山のまん丸い顔が凶暴な怒りを漲
らせていることに耕造は気づいた。
 乱暴者で有名だからな。今朝の常務室で、大浜は確かそんなことを言って
いた。その言葉が真実であることが判明するのに、さして時間はかからなか
った。幅の広いテーブルをはさんで、耕造と向かい合わせの椅子に大きな尻
を下ろした福山は、上着のポケットからクシャクシャになったマイルドセブ
ンのパッケージを取り出し、煙草を1本抜き取ると火をつけ、数回吸った後、傍らの灰皿にギュッと押しつけた。
 分厚いガラスの灰皿の中で、吸い殻が煙を立ち昇らせているのに見向きもせず、険しい目つきで耕造を睨みつけながら福山は口を開いた。
「てめえか。ろくでなしの脱字野郎は」
 独特のダミ声だ。凶暴な性格が滲み出ている。その声に圧倒されながらも耕造は答えた。
「はい。新富エージェンシー制作本部のコピーライター、増田と申します。このたびは、私のミスにより、御社に多大なるご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。まことに申し訳ございませんでした」
 テーブルに両手をつき、耕造は深々と頭を下げた。だが福山のダミ声は、さらに暴虐の言葉を吐いた。
「ぶっ殺してやりてえな」
「は……」
「ぶっ殺してやりてえなって言ってるんだ。てめえを」
 耕造は言葉に詰まった。26年間の広告人生を通じ、様々な顧客と接してきた自分。それらの中には悪質な人間も何人かはいたが、ここまでの手合いは初めてだ。この会話にどう対応すれば良いのか分からず、彼は困り果ててしまった。
「ぶっ殺されてえか、この俺に」
「…………」
「ぶっ殺されてえかって聞いてんだろ! 答えねえか、脱字野郎!」
 その一言が、ついに耕造の精神力の限界を超えた。福山の恫喝は、耕造の心の防御壁を穿ち、開いた穴から、秘匿されていた言葉たちが次々とこぼれ出た。
「死んだら楽になれるかなあ」
「なにーっ?」
「でもまだ死ぬわけにはいかないなあ」
「な、なんだとーっ! てめえ、この俺をナメてやがんのか!」
「黄色い薬が抗鬱剤のルボックス。緑の薬が自律神経調整剤のドグマチール」
「こ、この野郎! ふ、ふざけやがって! ワケの分かんねえこと、くっちゃべるんじゃねえ!」
「ピンクの薬が睡眠導入剤のドラール。白い薬が精神安定剤のデパス」
「もう許さねえーっ! ぶっ殺してやるーっ!」
 ものすごい形相でわめきながら福山は右手を伸ばし、傍らの灰皿を鷲づか
みにした。そして耕造の顔面めがけて思いっきり投げつけた。
 分厚いガラスの塊は耕造の額を直撃し、彼は椅子から床に落ちて気絶した。


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