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小説「升田のごとく」・第4話

 意識が戻った。
 気がつくと、リノリウム張りの床の上に、耕造は仰向けに倒れていた。
 額に激痛が走る。思わず右手を当てると、手のひらが紅く濡れた。
 ハンカチを取り出そうと、ズボンの右ポケットに手を差し入れ、ポケットの周囲を血で汚しながら布切れを引っ張り出して、額を押さえる。
 それから、壁を背もたれにして少しずつ上半身を起こすと、耕造は荒い息をついた。
 部屋には、自分の他、誰もいなかった。
 周囲を見渡すと、1メートルほど左手に、灰皿があった。分厚い、ガラス製の灰皿だ。そのさらに1メートル左には、短く揉み潰された煙草の吸い殻が1つ転がっている。ぼんやりとそれらを眺めているうちに、だんだんんと耕造の脳裏に記憶がよみがえってきた。
 チラシ広告の脱字ミスの件で、この会議室を訪れたのだった。それから福山が現れて、激しくわめき散らしながら、いきなり灰皿を投げつけてきた。それが額に当たり、今まで自分は気を失っていたというわけか。
 激痛は鈍痛に変わり、ハンカチは紅く濡れそぼっている。
 耕造はジャケットの内ポケットからティッシュぺーパーの袋をつかみ出すと、中身をまるごと抜き取り、ハンカチに代えて額に当てた。そして、背後の壁にもたれながらゆっくりと時間をかけて全身を起こしていき、立ち上がった。
 これで、謝罪の任務は無事に終えたことになるのだろうな……。
 鈍い痛みに苛まれる頭の片隅でそう思いながら、彼はよろよろとした足取りで会議室を出た。

 新富エージェンシーの本社ビルに、耕造は何とか帰還した。
「増田さん、どうしたんですか?」
 声をかけてきたのは、受付嬢の竹内知美だった。
 血に染まったティッシュを額に押し当てた耕造の姿に、尋常ならざるものを感じたのだろう。彼女は受付カウンターを出ると耕造のそばへ駆け寄り、額の惨状を見ると、大きな瞳に驚きを浮かべて言った。
「たいへん! 手当てしないと!」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと転んだだけだから……」
 その言葉には耳を貸さず、知美は耕造のジャケットの袖を強く引きながら、受付カウンターの裏側にある控え室へと連れていった。そして空いた椅子に耕造を座らせると、奥の方から救急箱を持ってきた。そして、蓋を開けながら言った。
「とりあえず応急処置をしておきますから、この後、すぐに病院へ行ってくださいね」
 額のティッシュを外すと、血はほとんど止まっているようだった。ピンセットにはさんだ脱脂綿を消毒液に浸すと、知美はそれで耕造の患部を丁寧に拭いた。消毒液が傷にひどく沁みたが、耕造はじっとこらえた。
 新しい脱脂綿に消毒液を含ませ、知美はもう一度、患部を拭いた。それが済むと、ガーゼの入った袋を開ける。
 他人からこんなにいたわってもらうのは、何年ぶりだろう。手当てを受けながら、耕造はしみじみと感じ入っていた。
 竹内知美は、社内でも評判の、気立ての優しい娘だ。例えば、仕事に出かけようとする営業マンのスーツにほころびを見つけると、すすんで繕ってあげようとする。知美は、そういうタイプの女の子なのだ。高校卒業後、入社して2年目の20歳。両親を始め周囲の人たちから愛情をたっぷりと注がれて育ったのだろう、ふっくらとした無邪気で愛くるしい顔立ちに、それがうかがえる。
 相手を選ばぬ、快楽まかせの手軽なセックス。評判の店を次から次へと食べ歩いては、グルメ談義。心はそっちのけで、顔と体に磨きをかけようとエステ通い。海外の有名ブランド品を見れば惜しげもなく金を使い、乗客で混み合う電車の座席で人目もはばからず平気で化粧直しをするような、昨今の若い女性たち。
 こんなご時世にあって、竹内知美のような存在はまさに貴重と言うべきだろう。もっとも、昔は、知美のような女子社員の方が普通だったように思われるのだが。大和撫子という言葉は、もはや死語も同然になってしまったのだろうか。
 厚手のガーゼを大きめのサイズに折りたたみ、耕造の額の傷口に当てると、知美は絆創膏でしっかりと固定した。そして言った。
「はい、応急処置、完了です。忘れないでお医者さんに行ってくださいね」
「どうもありがとう。ほんとうに助かったよ」
 笑みを浮かべて礼を言うと、耕造はエレベーターの方へ歩いていった。

 自分のデスクに戻った耕造を待ち受けていたのは、同僚たちの、好奇に満ちたまなざしだった。ただでさえ噂の早い社内だ。耕造が犯したチラシのミスの一件を知らない者などいないだろう。それに加えて、額の真ん中に貼られた、大きな絆創膏。そこへ周囲の絶え間ない視線が注がれているのを感じ、耕造の傷の痛みはさらに大きくなった。
「増田君」
 名前を呼ばれて振り向くと、直属の上司であるディレクターの樋口直彦が立っていた。
「話はすべて、大浜常務から聞いたよ。相手はグランド都市開発の福山部長か。それにしても、ひどくやられたもんだな」
 樋口は、上司ではあるが、年齢は耕造より5つ下だ。出世が早いのは、ゴマスリ上手で、上層部の人間たちにウケがいいからだ。
「いえ、まあ……自業自得ってやつです……」
 耕造はそう答えたが、樋口はさらに言った。
「しかし」そのケガでは、仕事にならんだろう。とにかく早く医者へ行きなさい。今日はもう、家へ帰っていいから」
 上司の言葉は、この場からすぐにでも消え去ってしまいたい耕造にとって、まさに救いだった。樋口に礼を述べると、手早く帰り支度を済ませ、彼は逃げるようにエレベーターに乗って1階フロアへ降りた。そして正面ドアへと足早に歩いていった。
 その後ろ姿に、接客中の竹内知美が、ちらりと心配そうな視線を送った。

 しかし、会社を早退した耕造が向かったのは、病院ではなく、居酒屋だった。
 額の傷はズキズキと痛むが、それ以上に心の傷はズタズタだ。今朝、大浜強志から受けた、残虐極まりない言葉の暴力によって。
 その心の傷を、とにかく一刻も早く、消毒液で洗いたい。それは、酒だ。大浜に馬鹿にされた、耕造の大好きなウーロンハイだ。額の傷を受付嬢が消毒してくれたように、こころの傷を、なじみの居酒屋が癒してくれるだろう。その店は、千葉県柏市の郊外、耕造が毎朝最初の電車に乗る駅の、すぐ近くにある。
 腕時計に目をやると、時刻は午後3時50分。電車を4本乗り継いで、最終駅に着く頃には、店はもう開いているはずだ。
 新富町駅の入り口に到ると、耕造は急ぎ足のまま、地下鉄のホームへと続く階段を降りていった

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