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小説「升田のごとく」・第16話

 体温計が、平熱を示した。
 ベッドから起き出すと、体が軽くなっている。
 耕造は、カーテンを開け、朝の明るさを寝室の中へ採り入れた。時計の針は8時半を少し回っている。
 テレビをつけた。ニュース番組が、今日が12月27日の月曜日であることを教えてくれた。何と、一週間以上も寝ていたのか。
 寝室を出て、洗面台へ向かった。鏡の前に立ち、じっと眺める。すると、見慣れない顔をした男が、自分を見つめ返してくる。
 鏡の中の男は、痩せこけていた。髪はひどく乱れて濡れ固まり、蒼白い顔の鼻から下は伸び放題の髭で覆われている。落ち窪んだ両目から、男は、静かな視線を向けてくる。
 耕造は、髭を剃り始めた。
 右の頬、左の頬、それから顎と、丹念に髭剃りを当てていく。そして、最後に唇の上を剃ろうとしたところで、動きを止めた。
 口髭を残した、鏡の中の男が、じっとこちらを見つめている。その髭が、耕造に何かを思い出させた。
 そうだ。昭和31年1月。名人に香車を引いて勝った、口髭の将棋指し。
 そのとき、鏡の中の男が、語りかけてきた。
「お前は、誰だ?」
 耕造は答えた。
「俺は、コウゾウだ」
「コウゾウ? マスダコウゾウか?」
「そうだ。 マスダコウゾウだ」
「香一筋の、マスダコウゾウか?」
「そうだ。香一筋の、マスダコウゾウだ」
「香一筋に、生きているか?」
「これまでは違った。これからは、そうだ」
「もういちど訊く。お前は、誰だ?」
「俺は、マスダコウゾウだ」
「新手一生の、マスダコウゾウか?」
「そうだ。新手一生の、マスダコウゾウだ」
「新手一生を、貫いているか?」
「これまでは違った。これからは、そうだ」
「ほんとうに、そうか?」
「ほんとうに、そうだ」
「よろしい。では、新手一生で行け」
「分かった。新手一生で行く」
 ついに天啓が訪れたのか。
 急いで身支度をすると、耕造は家を飛び出した。

 モミガラ書房のガラス戸を引き開け、薄暗い店内へ入っていく。
 半月ぶりに耕造の顔を見て、老店主は嬉しそうに言った。
「久しぶりやなあ、増田はん。おやおや、髭や。髭を生やしたんかいな。名前だけやのうて、口元まで升田といっしょやな」
 愉快そうに笑う老人に、耕造は訊いた。
「モミガラさん、升田の扇子はありますか? 升田幸三が直筆で揮毫した扇子、このお店に置いてありますか?」
「あるよ」
 老人は答えた。
「升田だけやのうて、いろんな棋士の扇子がある。けど、やっぱり一番の人気は、升田の扇子やね。はて、何本くらい残っておるやろ」
 そう言うと、モミガラ老人は店の奥に姿を消した。倉庫で、扇子を探しているらしい。数分後、何本かの扇子を持って戻ってくると、老人は机の上にそれらを並べた。
「ひい、ふう、みい……。全部で7本か。残っておるのは、これだけやね。昔は、もっとぎょうさん、升田の扇子があったのやけどな。みーんな売れてしもうて」
 はたして、自分の求めている文字が、これらの中にあるだろうか。今朝、洗面台の鏡の前での、突然の閃き。それを、形にすることができるだろうか。
 並べられた扇子を、1本1本、耕造は手に取り、開いてみた。7本の扇子のいずれにも、希代の勝負師ならではの、力強い筆跡が躍っていた。

「新手一生  升田幸三」
「名人の上  升田幸三」
「着眼大局着手小局  升田幸三」
「棋活覚  升田幸三」
「古今無双  升田幸三」
「手眼  升田幸三」
「春風を斬る  升田幸三」

 机の上に広げられた、7枚の扇。雄渾な筆致で書き記された、7つの金言。それらに、耕造は鋭い視線を走らせた。
 最初は素早く、次からはゆっくりと、何度も繰り返しながら7本のフレーズを観察し、30個の文字を1つ1つ吟味していく。
 そうして、数分。
 コピーライターの眼光は、脳裏のモニター画面に、自分が思い描いていた通りのキャッチフレーズを映し出すことに成功した。
 並べられた扇子の中から、耕造は3本を選び取った。「新手一生」、「着眼大局着手小局」、そして「古今無双」。
 それらをたたんで、モミガラ老人に差し出しながら、彼は言った。
「これを……」
 老店主は喜んだ。
「おお、3本もお買い上げを。おおきに、おおきに。ひとつ10万円やから、全部で30万円やね。増田はん、ええ買い物、しはったなあ」
「いいえ……」
 耕造は否定した。
「買うのではありません。お借りしたいのです。私には、30万円もお支払いする余裕などありません。だから、貸してください。お願いです、モミガラさん、扇子を貸してください」
 頭を下げる耕造に、店主は言った。
「あのな、増田はん。うちは、貸本屋でも貸扇子屋でもあらへんで。品物と引き換えに、きちんとお代をいただく。そうやって、何十年もの間、この商売をやってきたのや。売り物を貸すやなんて、そないなこと、でけしまへん」
 老人の言うことは、もっともだった。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。耕造は床にひざまずき、土下座をした。
「お願いです。扇子を貸してください。私の人生に、大きな勝負のときが訪れました。この勝負に勝つためには、どうしても扇子が必要なのです。升田幸三の、これらの筆文字が必要なのです。私はこれまで、勝負のたびに逃げてばかりいました。しかし、もう逃げるつもりはありません。なぜなら、升田幸三が、私に戦う勇気をくれたからです。お願いです! 私は勝ちたいのです! お願いです! 扇子を貸してください!」
 耕造は、額を床にこすりつけた。
 老人は、その姿をじっと見つめている。
 やがて、彼は静かに口を開いた。
「面を上げなはれ」
 耕造は、頭を床から離した。
「体も起こしなはれ」
 耕造は、立ち上がった。
 落ち窪んだ両目で、哀願するように店主を見つめる、耕造。
 その視線を、優しく受けとめて、モミガラ老人は言った。
「増田はん。あんたのことは、知美から聞いておるよ。会社では、たいそう辛い立場に置かれてはるそうやなあ。そのあんたが、勝負をする。一世一代の、大勝負に打って出る。よろし! 大いによろし! 頑張りなはれ! 大いに、頑張りなはれ!」
 そうして老人は、3本の扇子を、耕造の手に握らせた。
「持ってお行き。お金はいらんよ。その代わり、勝つのやで! 絶対に、勝つのやで!」
 慈愛と激励に、感極まった、耕造。
 何度も礼を述べ、何滴も涙をこぼした。
 老人に見送られ、店を出ようとガラス戸に手を掛けたそのとき、ふと思いついた。
 あの「香一筋」の筆跡に、升田幸三の魂に、コンペの必勝祈願をしていこう。
 きびすを返すと、耕造は店の奥に向かって歩いていった。そして、前方の壁に飾られた黒い額縁に目を向けようとし……、あっと叫んだ。
 ない。額縁がない。壁には何もない。
 どこかへ移したのだろうか。
 振り向くと、モミガラ老人が立っていた。とまどう耕造に、彼は思いも寄らない言葉を投げかけた。
「売れたのや」
 それを聞いたとき、老人が冗談を言っているのではないかと耕造は思った。これは売り物ではない。自分の死後は将棋の博物館に展示されることになるだろう。それほどの歴史的価値がある物だから。初めてこの店を訪れたとき、確かに彼はそう話したのだ。
「売れたのや。3千万円でな」
 老人が続けてそう言ったとき、もはや事実であることを耕造は悟った。
「先週の日曜日の夕方やった。とても立派な身なりをしたお客さんが、御付きの者を何人か従えてやってきてな。あれを買いたいと言うたのや。もちろん、ワシは断ったよ。売り物ではないから、とね。しかし、そのお客さん、どうしても欲しいと。昔から升田幸三の大ファンで、長年探し続けてきて、やっと見つけた。ぜひ売ってくれと。では、3千万円なら。ワシはそう答えた。法外な値段を言うて、ビックリさせて、あきらめさせようとしたのや。ところが、ビックリしたのは、こっちやった。お客さんが分かりましたと頷くと、御付きの者が大きなケースから札束をゴソッと取り出し、机の上に積み上げたのや。数えてみたら、きっちり3千万円。世の中には、お金持ちがおるもんやねえ」
 耕造は、ひどく落胆した。あのとき、衰弱しきっていた自分の心を、不思議な力で奮い立たせてくれた「香一筋」。新たな生命力を授けてくれた、あの豪胆な筆鋒に、もう二度と会うことができないのか。
「けどな、それほどまでの愛好家に買われていったのや。天国の升田も、さぞかし喜んでいることやろうて」
 確かに、モミガラ老人の言う通りかもしれない。どこに在ろうと、偉大なる棋士の魂は永遠なのだから。
 とにかく今は、感傷に浸っている場合ではない。
 老人に一礼すると、耕造は店を出た。そして、銀座1丁目の三沢のオフィスへと急いだ。
 
                             

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