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小説「升田のごとく」・第9話

 いったい何年ぶりだろう、こんなに読書に夢中になれたのは。
 古本の裏表紙をパタンと閉じた耕造は、心地よい充足感に包まれていた。
 自宅の書斎で、モミガラ書房の老店主に勧められた「名人に香車を引いた男」を開いたとたん、ぐいぐいと升田幸三の人生ドラマに引きこまれ、ふと我に返ったときには、すでに読み終わっていた。それほど面白い一冊だった。
 自分の心が、物事に対して、今もなお興味を示す力を持っている。この事実を発見したことに、耕造は驚いた。病に取り憑かれてからというもの、彼の心はまるで曇りガラスを被せられたかのように、感度が鈍くなり、つねに倦怠していた。
 その分厚いガラスを打破する出来事が、今日いちにちで、二度も起こるとは。まず最初が、古書店での「香一筋」の筆跡との邂逅。そして次が、この書物への没頭だ。
「名人に香車を引いた男」は、昭和54年に将棋界を引退した升田幸三が、その波乱万丈の人生を回顧した自叙伝だった。大正7年に広島の山奥の貧農に生を受けた腕白小僧が、昭和32年に将棋界の全タイトルを制覇するまでの40年間の軌跡。それが、幾多のエピソードとともに綴られており、それらの逸話のすべてが実に英雄的で、耕造の胸を何度も何度も躍らせた。
 さらにまた強い印象をもたらしたのは、この本の巻頭を飾る、数点の写真だった。丸刈り頭で将棋の修業に励んだ少年時代、口髭を蓄えて棋界の頂点を勝ち取った全盛期。そして蓬髪と顎鬚をなびかせた悠々たる晩年。それら、すべての升田幸三が、鋭い双眸と張り出た頬骨に、強靭な意志の力を漲らせている。
「香一筋」の雄渾な筆致。我が道を行く真一文字な生き様。屈強なサムライの如き風貌。伝説の天才棋士は、まさしく自分の対極に位置する存在であり、だからこそ、これほどまでに自分はこの人物に魅了されてしまったのだと、耕造は思い知った。
 もしも生まれ変われるものならば、升田のような人間になりたい。
 耕造は、子供のように夢想した。

 翌日も、耕造は、神田神保町の路地裏へ向かっていた。
 休暇に入って5日目の、土曜日の午後。額のバンドエイドは取れ、その下には生き生きと瞳が輝いている。今日もまた、たっぷりと、升田幸三の時間に浸れるのだ。そう思うと、耕造の表情は興奮を隠しきれない。
 モミガラ老人もまた、店を再訪した耕造を、嬉しそうに出迎えた。そして、開口一番、カン高い声で、このような言葉を発した。
「将棋の名人であるこの木村に向かって、ゴミみたいなヤツとは何事だ。升田君、名人がゴミなら、君はいったい何なんだ」
 耕造は、とっさに言葉を返す。
「私ですか。さあ、ゴミにたかるハエみたいなもんですかな」
 その反応の早さに、モミガラ老人は拍手をしながら言った。
「よっしゃ、合格。増田はん、あの本、しっかり読みはったようやな」
 二人の、このやりとりは、昭和24年に金沢で開催された第2回全日本選手権戦の対局前夜に、宿敵である木村義雄名人に向かって、血気盛んな升田幸三八段がケンカを吹っかけた「ゴミ・ハエ問答」を再現したものだった。「名人に香車を引いた男」に紹介されている数多くのエピソードの中でも、耕造が最も好きなもののひとつだ。
 狭い店内を歩き、壁に飾られた黒い額縁に、耕造は視線を向ける。「香一筋」の筆文字は、昨日にも増して、強い力で彼の心を惹きつける。
「その言葉にこめられた升田の精神が、何となく分かるようになったやろ。あの本を読みはったのやから」
 モミガラ老人の問いかけに、耕造は答えた。
「はい。将棋の駒の中でも、香車は特別な動きをする。前にはいくらでも進めるのに、後戻りができない。横へも動けない。つまり、いったん走り始めたら、もう帰ってくることのできない駒なのですね。将棋の世界で、必ずや天下を取ってみせると、13歳で家出をし、棋道一筋まっしぐらに生きた升田幸三は、自分自身を香車という駒に喩えたのではないでしょうか」
「それと、もうひとつの意味があるのや」
 教え諭すように、老人は言う。
「香一筋とは、香車一本、香車の駒一枚、ということでもある。家出の際、母親が愛用していた物差しの裏に書き置きを残したように、升田には実に大きな望みがあったのやな。名人よりも、香車一枚は強い棋士になってみせるという、たいへんな野望や。すなわち、香一筋、名人の上。この筆文字には、それほどの強い決意がこめられているのや」
 なるほど、そうだったのか。モミガラ老人の説明を聞き、耕造はすっかり感じ入ってしまった。少年の頃からの夢を、「香一筋」の3文字で表現した升田幸三。そして、その夢を、本当に実現させてしまった升田幸三。ああ、何という、男だろう!
 あらためて、升田への憧憬の念に浸る耕造。そこへ、モミガラ老人が、ふと声をかけた。
「ところで、今、何時かな?」
 現実の世界に呼び戻された耕造は、腕時計に目を落とし、午後1時50分であることを告げた。すると、老人は、うんうんと頷きながら言った。
「もうすぐ、孫が来るのや」
「孫? モミガラさん、お孫さんがいらっしゃるのですか?」
 路地裏の薄暗い店で、将棋の古本を売って暮らしている90歳のこの老人は、いかにも天涯孤独のように見える。そんなモミガラ氏を訪ねてくる血縁者のいることが、耕造には意外だった。
「そうや。いつもは会社勤めをしておるのやけどな、今日は土曜日で休みやろ。毎月、2日。第2土曜日と第4土曜日の午後2時頃に、この店にやってきて、掃除や本の整理をしてくれる。爺さん思いの、心の優しい孫や」
「へえ、そうなんですか。いいお孫さんを持って、幸せですね。そのお孫さんも、将棋を指されるのですか?」
 その質問に対し、モミガラ老人から返ってきた答は、耕造の度肝を抜くのに十分すぎるものだった。
「新橋王道舘将棋道場の師範にして、実力七段。4歳にして将棋を覚えた。教えたのは、誰あろう、升田幸三その人や」
「ええーっ!」
 耕造が驚嘆の叫びを上げるのとほぼ同時に、店のガラス戸が開き、元気のいい声が飛びこんできた。
「おじいちゃん、ダメじゃない、入り口の戸を閉めっぱなしにしてちゃあ!お店の中が、どんどんカビ臭くなっちゃうでしょう!」
 聞き覚えのあるその声に、耕造が振り向くと、見慣れた顔がそこにあった。

 新富エージェンシー総務局所属受付係、竹内知美。

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