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小説「升田のごとく」・第8話

 良く晴れた空から、日差しが街に降り注ぎ、裸の街路樹が歩道に影を落としている。
 12月にしては、暖かい午後。神田神保町の表通りを行き来する人並みの中に、耕造の姿があった。
 休暇を取ってから、3日の間は、自宅にこもって過ごした。額の傷は小さくなり、絆創膏はバンドエイドに代わった。医師の診断書をポストに投函してからは、気分もいくらか軽くなった。そんな耕造を、ぽかぽかとした冬の陽気が、戸外へと誘い出したのだ。
 何年ぶりだろう、この街へ来たのは。ゆっくりと歩きながら、耕造は懐かしさに浸っていた。そう、ここは、彼が学生時代の四年間を過ごした、青春の舞台なのだ。
 若者たちで賑わうこの街の雰囲気は、30年前とさほど変わらない。あえて変わった点を探すとすれば、昔よりも、若い女性たちの姿が少なくなっていることだろうか。
 耕造が学生だった当時は、この辺りにはいくつもの女子大学があり、明るくはしゃぎながら街を行く娘たちの姿を目にするたびに、彼は胸をときめかせたものだった。だが今では、それらの学校の大半が、東京の郊外や近隣の他県へとキャンパスを移してしまった。
 けれども、通りをはさんで立ち並ぶ、数々の古本屋の姿は健在だ。学生時代の耕造は、この古書店街で時間を過ごすのが好きだった。ホコリとカビの臭いが立ちこめる狭い店内で、お気に入りの作家たちの本を探し当て、それらを手にしては、立ち読みしたり、買って帰ったりしたものだ。
 店先に、うずたかく本を積み重ねた古本屋の一軒一軒を、耕造は覗きこ4ながら歩いていく。どの店も、客の姿は、まばらだ。
 先進の情報技術が次々と新しい娯楽文化を生み出しているこの時代に、手垢にまみれた古書を買い取り、それをまた売り物として棚に並べ、客の訪れを待つ。そんな昔ながらの商売のやり方が、よくもまあ成り立っているものだなと感心しながら、耕造は通りを進んでいく。
 ふと、視線の先に、右の方向へ折れる小道が見えた。足の向くままにその道をたどって、路地裏へ。少し歩くと、細い十字路に行き当たり、今度はそこを左へ曲がる。
 そこで、耕造は立ち止まった。視界の中に、飛びこんできたものがあったからだ。
 それは、黄色い立て看板だった。やや縦長の五角形をした、大きな看板だった。耕造は、近づいて、それを眺めた。木製の黄色い看板は、将棋の駒の形をしていた。その上には、黒い文字で、こんな文句が書かれていた。

「日本で唯一、将棋の古書の専門店」

 看板は、その古本屋の店先に置かれてあった。視線を上げると、その店は、大きな看板とは対照的に、こぢんまりとした木造のたたずまいをしていた。
 店の入り口は、ガラス張りの引き戸になっており、そのガラスには赤い筆文字でこのように記されていた。
 
「モミガラ書房」

 こんなところに、こんな店があったのか。耕造は、不思議な思いに捕らわれた。学生時代の四年間を通して、この街の古本屋は一軒残らず知り尽くしているつもりだった。だが、この店を目にしたのは初めてだ。自分が大学を卒業した後にできた店なのだろうか。それにしては、ずいぶんと古びているが。
 しかし、変わった店だな。「将棋の古書の専門店」というのも今まで聞いたことがないし、だいいち「モミガラ書房」という店名からして、いかにも奇妙だ。そもそも、モミガラというのは、枕の中に詰め物として入れたりする、稲の皮のカスだろう。それが、将棋と、どういう関係があるのだろう。
 耕造は、別に、将棋に興味があるわけではない。子供の頃、学校や近所の友達と指して遊んだことはあるが、せいぜい駒の動かし方を知っている程度のヘボ将棋だ。
 それなのに、この店に入ってみようと思ったのは、愛書家としての好奇心からだった。何か、これまでの自分が知らなかった、新しい出会いや発見があるかもしれない。
 ガラス戸を引き開けると、耕造は店の中へ足を踏み入れた。

 薄暗い店内には、誰もいなかった。カビの臭いが、鼻をつく。ぐるりと見渡すと、狭いスペースには5つの書架が並んでおり、それぞれの棚に収めた古書のジャンルを示す紙が貼られている。「江戸の将棋本」、「明治の将棋本」、「大正の将棋本」、「昭和の将棋本」、「平成の将棋本」。
 いちばん左に設置された「江戸の将棋本」の本棚に歩み寄り、耕造は中を覗いてみた。そこには、装丁も版型も紙質も古色蒼然とした数々の書籍が整然と陳列されてあり、それぞれの本には、書名と著者名、刊行された年、そして値段を書いた札が付けられている。
 曰く、「象戯手鑑/五代大橋宗桂/寛文九年/35万円」。「上手指出定跡駒上将棊指覺大成/西沢氏貞陣編/元禄十一年/20万円」。「象戯作物/大橋宗與/享保元年/13万円」。「象戯百番奇巧図伊藤看壽/宝暦五年/180万円」。「作物象戯大矢數/無住僊/天明九年/18万円」。「唐山象戯譜/備前草加定環/寛政八年/9万5千円」。「将棊相懸集/大橋宗英/文化十三年/8万円」……。
 すごい値段だな。将棋本の愛好家にとっては、どれもこれも垂涎の的なのだろう。呆気に取られながら、店内を歩き続ける耕造。
 突然、その足が、ぴたっと、止まった。
 止まったまま、ぴくりとも、動かない。
 直立して微動だにしない耕造の顔は、前方の壁に向けられていた。
 壁に掛けられた、一枚の額縁。その中にあるものに、彼の視線と全神経は注がれていた。
 黒い額縁に収められた白い紙。そこには、ぶっとい墨痕が、今にも飛び出してきそうな勢いで強烈な自己主張をしている。

「香一筋  升田幸三」

 何という、力強い筆跡だろう。白地のど真ん中に書かれた、「香一筋」の3文字。そして、左隅に記された、「升田幸三」の4文字。
 合わせて7つの筆文字は、まるで生き物であるかのように躍動し、命の輝きを漲らせているではないか。
 耕造の足が、動きを始めた。前方の壁に向かって、一歩一歩、進んでいく。
 近づいていくにつれ、7つの墨文字は大きさを増し、命の力は強さを膨らませていく。
 そして額縁を間近に見上げる位置にまで到達した耕造は、黒々と光り輝く筆跡を、あらためて己の両目に焼きつけた。

「香一筋  升田幸三」

 巨大な魂を宿した7文字は、耕造を見下ろしながら、こんな言葉を投げかけてくる。
 俺の命は永遠だ。お前の命はどうなんだ。俺は今でも生きている。お前は今を生きているか。
 そんな問いかけが、この額縁の中からはっせられているような気がする。確かに、そんな気がするのだ。
 耕造は口を開き、7つの文字を、声に出して読み上げてみた。
「キョウ、ヒトスジ。ショウダユキミツ」

「アホか、お前は」
 後ろから、声がした。
 耕造が振り向くと、ひとりの老人が立っていた。
 とても小柄で、かなりの高齢に見えるその老人は、藍染めの作務衣を着ていた。袖や裾から覗く腕や脚は、ガリガリに瘦せ細っている。つるつるの坊主頭の下には、しわくちゃの顔があり、大きな両目だけは、なぜか若々しい輝きを保っている。
 つるつる頭のてっぺんから発せられるようなカン高い声で、またも老人は言った。
「アホか、お前は。マスダコウゾウも知らんのか」
「えっ? マスダコウゾウ?」
 自分のフルネームを口にされ、耕造は驚いた。
「そうや、マスダコウゾウや。ショウダユキミツやあらへんで。マ、ス、ダ、コ、ウ、ゾ、ウ。お前、ほんまに升田幸三を知らんみたいやな」
 そうか、この7文字を書いた「升田幸三」という人物の名は、「マスダコウゾウ」と読むのか。何ということだ。自分とまったく同じ名前ではないか。偶然の一致に、さらなる驚きに包まれる、耕造。
「天下の升田幸三も知らんようなヤツが、いったい、将棋の店に何の用や?いったい、お前は何者や?」
「わ、私は、マ、マスダコウゾウです」
「何やとお?」
 老人のカン高い声が、いちだんと高くなった。
「アホぬかすのもいい加減にせえや! お前みたいなケッタイなヤツが、升田幸三であってたまるかいな!」
 そこで、耕造は上着の内ポケットから財布を取り出し、そこに入れてある運転免許証を老人に見せた。
 すると、老人は、びっくりしたように目を丸くした。それから、呟いた。
「ほんまや……」
 老人の顔から、険しさが消え、しだいに嬉しそうな表情に変わっていった。
「ほんまに、マスダコウゾウや。何とまあ、こないなこともあるんやなあ。こんにちは、増田耕造はん。きょうは、どないな本をお探しで?」
 老人は、すっかり愛想よくなった。
 その上機嫌な様子に、耕造は、ほっとした。そして、この風変わりな老人と会話を楽しみたいという気持ちになってきた。
「香一筋。実に素晴らしい筆致ですね。これを書いた升田幸三という人は、やはり将棋に関係のある人なのですか?」
 耕造の問いかけに、老人は大きく頷いた。そして、おもむろに口を開くと、こう答えた。
「初代名人、大橋宗桂の時代から四百年。数多の名棋士が輩出した将棋の世界ではあるのやけれど、少なくともこのワシの知る限り、升田幸三ほどの天才棋士はおらんやった。まさに、天才の中の天才。そしてまた、男の中の男。まことに勇敢な男やったよ、升田幸三は。ワシは升田とは戦友でな。敵の爆弾降り注ぐ、ミクロネシアの孤島ポナペで、ともに死線をかいくぐりながら、ここで終わってなるものか、必ず生きて日本に帰ろうと誓い合った仲なのや」
 老人は、遠い目つきになり、話を続けた。
「ワシらの任務は、滑走路を作ることやった。味方の飛行機を迎えるためにな。そこへ、敵機がやってきて、爆弾を落としていくのや。滑走路だけやない。ワシらの宿舎も狙われた。空襲警報が鳴り、みんな壕の中へ避難するのやけど、ある日、ワシだけ逃げ遅れた。ああ、もう駄目かと観念したそのとき、爆撃の中を一人の男が宿舎に飛びこんできたのや。それは升田やった。何と、ワシを救い出しにきてくれたのや。升田のおかげで、ワシは助かった。まさに命の恩人や。その升田も、もう13年前にこの世を去ってしもうた。このワシは90歳になった今も、こうして古本屋を営んでおるのやけどな」
 そういうことだったのか。この老人が、マスダコウゾウという名前にこだわる理由が、やっと分かった。死と隣り合わせの地で、明日への希望を捨てずに生き抜き、強い絆で結ばれた、友人どうし。耕造の、知らない昔の話ではあるけれど。
「そこに飾ってあるやつも、升田がワシに書いてくれたものや。昭和18年に召集され、戦地へと運ばれる輸送船の中で、真新しい手拭いに、墨をたっぷりと含ませた筆で、升田が揮毫してくれたのや」
 その言葉に促されるように、耕造は黒檀製の額縁の中身に目をやり、じっと観察した。なるほど、老人の言う通り、紙かと思えた白地の素材は、木綿らしき布地だった。60年の歳月を経て、かなり黄ばんでしまっている。
「香一筋」そして「升田幸三」。これらの7文字は、依然として強烈な生命のオーラを発し、耕造の心を魅了し続ける。衰弱している彼の心を、不思議な力で、奮い立たせようとするかのように。
 欲しい。耕造は思った。自分は、これが、欲しい。
「残念やけど、それは売り物ではないよ」
 耕造の心を見透かすように、老人が言った。
「ワシが死んだら、おそらく将棋の博物館に展示されることになるやろうな。それほどの歴史的な価値が、それにはあるのや」
 落胆する、耕造。だが、彼の心が希求するものが、もうひとつあった。耕造は、思わずそれを声にした。
「私は知りたい。これを書いた人のことを。升田幸三という人間のことを。私と同じ名前を持つ人物のことを。もっともっと、詳しく知りたい。お願いします。教えてください。もっともっと、教えてください!」
 耕造の哀願に、老人は困ったような顔をした。そして、諭すように話した。
「升田幸三という存在は、あまりにも深く、あまりにも広い。この場で説明し尽くせというのは、とてもとても無理な話や。それに、ワシも、そろそろ疲れてきたしな」
 そう言うと、老人は、その場から離れ、書架の方へ歩いていった。そして、5つ並んだ本棚のうち、「昭和の将棋本」の棚の中から一冊の古本を抜き取ると、それを持って耕造のもとへ戻ってきた。
「とりあえず、これを読んでみなはれ。升田幸三という人間を学ぶには、この本から始めるのがいちばん良い」
 その言葉とともに耕造に手渡されたのは、ハードカバーの書籍だった。表紙には、将棋盤に向かう着物姿の男の写真がレイアウトされ、その左横には本のタイトルが書いてある。
「名人に香車を引いた男 升田幸三自伝」
 この写真の人物こそが、升田幸三なのか。耕造が表紙に見とれていると、横から老人が手のひらを差し出して催促した。
「3500円。ええ買い物、しはったなあ」

 店を去ろうとした耕造は、思い出したように言った。
「ところで、ご主人、お名前は?」
 その質問に、老人は意外な返答をした。
「モミガラ」
「えっ? モミガラ?」
 とまどい顔の耕造に、笑いながら老人は話す。
「もちろん本名は別にあるし、昔はそれを名乗っていたよ。だが、升田幸三と出会ってからは、いつの間にかワシは、モミガラと呼ばれるようになってしまったのや。どうして、モミガラなのか。それはやな、ご覧の通り、ワシは小柄で痩せておるやろ。若い頃から、そうやった。升田のヤツ、ワシをつかまえては、相撲を取ろうと言う。何しろ相手は、身の丈6尺の偉丈夫や。ワシの体を抱え上げ、放り投げては、升田は笑う。お前は、まるでモミガラみたいに軽いのう。それだけやない。升田のヤツめ、ワシを座らせては、将棋を指そうと迫る。何しろ相手は、天才棋士や。王様と歩を3枚までに駒を落とされても、何番やってもワシは吹っ飛ばされる。するとまた、升田は笑い転げるのや。お前は、ほんとにモミガラみたいに飛んでいくのう」
 老人の愉快な話に、耕造も、つられて笑ってしまった。それで、この店の名前も「モミガラ書房」というわけか。

「モミガラさん、明日もここへ来ていいですか?」
「いつでも、おいで。うちは年中無休やからね」
 そのやりとりを最後に、耕造は店を出た。

 

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