見出し画像

帰国子女のわたしが思う日本人とは。

わたしは、なにを隠そう、「帰国子女」だ!

なにを自慢げにかっこつけてるんだ。。。と思われた方もいらっしゃるかもしれないが、紛れもない事実なのだ。

4歳~6歳のころ、アメリカのフィラデルフィアというところに住んでいた。(TOPの画像wwww)
父親の仕事の都合で。

わたしの両親のすごいところというか、適当なところというか、乱暴なところというか、、、、。
両親なりには、なにか考えがあってのことだったのだろうが、渡米してすぐの英語もなにも分からないわたしを、いきなり公立の現地の保育園に入れた。

今でも覚えてるのだが、髭もじゃの大男の先生がわたしのクラスの担当だった。
保育園に行けば、見たこともないような大男の外人の先生が迎えてくれる。
わたしは怖くてたまらなくて、いつも泣いて逃げ回っていた。

でも、その大男は
「OH~!!YUMI!!js?lkQldk?P?・・・・・・・!!」
と、謎の言語を話し(英語)わたしを片方の肩にひょいっと乗せて、教室へ連れていく。

「お母さん、たすけて~~~(涙)」と振り向いて母に手を伸ばすも、ニコニコして手を振るだけの母親をどれだけ恨んだことか、、、。(怖いww)

まあその大男は、見た目こそ怖かったけどとっても優しい人で、わたしをとても可愛がってくれたと後になってから母に聞いた。

ただ、大男に担がれて連行された印象が強すぎて、優しく遊んでもらった記憶は丸っきりないのだが(笑)
ソーリー、Mr・O!(ミスター・オーという名前なのは憶えてる。)
その節は世話になったぜ!

その後、保育園を卒園すると、これまた両親にビックリなのだが、現地の公立の小学校へ入学させられた。

苦労するかと思いきや、保育園に通っていた1年で、わたしは英語ペラペラになっていた!

子どもの日常会話レベルは当たり前に喋れて、何なら日本語のほうが不自由になっていた。

これが、子どものすごいところ!
父は仕事柄、英語もしゃべれるのだが、母はなんとかカタコトで意思表示ができる程度だった。

だから、家にかかってくる電話はわたしが出る役目。
要件を聞いて母に取り継いだ。

小学校では、英語で苦労することはまるでなく、授業はみんなと一緒に普通に受けた。
まあまあかしこかったちびユミちゃん。
成績もよかった。(言っても1年生だからねwww)

勉強で苦労することはなかったが、一番印象に残っているのは、人種差別だ。

アメリカの公立小学校。
そこは、人種のルツボだった。
白人、金髪、青い目のきれいな子もいれば、
アジア系、黒人系など、さまざまな見た目の子どもたちがいた。

白人にバカにされた記憶はないのだが、黒人の子にはよくいじめられた。
「You are YERROW MONKEY!!」って。
まだ、5~6歳のわたしはその意味が分かってなかったけど、とにかく肌の色のせいで、いじわるされているのは分かった。

今思えば、黒人系のひとは差別されることが多いから、自分より弱そうな人種のわたしをいじめていたんだろうな。

でも、わたしが日本に帰る前の送別会のとき、その黒人の子が、
「ユミ!いままでいじわるしてごめんね!ほんとうは大好きだよ。元気でね」
っていって、ハグしてほっぺにキスしてくれたことはすごく覚えてる。
だって、嬉しくて、これでお別れかと思うと悲しくて泣いちゃったから。
「わたしも!今までありがとう!」
って言ってハグしてキスし返した。


キャリーという青い目で金髪のとても可愛い子と仲良しだった。
親同士も仲良くて、学校帰りにおうちに遊びにいったり、ガールスカウトを一緒にやったりしていた。
アメリカのおうちには、洗濯機とか置いてある地下室がたいていあるのだけど、よくその地下室でかくれんぼして遊んだ。

わたしの住んでた家の裏も、ずっと庭が続いて林みたいになっていたのだが、そこでもキャリーや、近所の子たちと遊んだ。

約2年間だったが、4歳~6歳という人格を形成されるのに、とても重要な時期を外国で過ごしたというのは、わたしの人生にとてもいい影響を与えたと思う。


なにより、
「いろんな人間が世の中にはいるんだ」
って、人を受け入れる器が広がったと思う。

日本に帰って1年生の9月から、公立小学校に編入したのだが、日本語が不自由でしばらく困った。
ゆっくりしゃべってくれないと分からないし、発音がおかしいと友達にからかわれた。

でも、ほんとう子どもの適応能力はすごい!
今度はあっという間に英語を忘れて、日本語オンリーになった(笑)

残念なことに、今は英語はほとんどしゃべれない。
まあ、アメリカンマインドは残ってるから、果敢に外人にしゃべりにいくけどね。

言葉は、使わなきゃ忘れていくものなんだね。。。。


ちなみにね、やっぱりアメリカって自己表現の国なんだよね。
小学校でも、ディスカッションみたいな意見を述べる場面が多かったし、自分の好きなことを発表することもよくあったと思う。

ファッションだって自由だから、小学1年生といえども、みんなピアスやネイルをしておしゃれして登校した。

日本に帰ってから、そのノリでネイルして登校したら、先生に怒られるは、クラスの子には「いけないんだ~!」とか言って非難ゴーゴーだわで、参っちゃたよね。

あとね、すごく覚えてるのが、小学校(日本)のお昼の放送の企画で、好きな歌や音楽を流してくれるというのがあったのね。
リクエストを受け付ける投書箱が置いてあって。

んで、何を勘違いしたのか編入したての1年生のチビゆみちゃん。
「うたをうたいたいです。1ねんユミ」
って書いて投書したんだよね(笑)
歌うことが大好きだったの。

そしたら数日後、給食の時間に放送委員のお姉さんがわたしを迎えにきてくれて。
そんな投書をしたことなんて知らない先生は
「ユミさん、そんな投書書いたの?恥ずかしいからやめておきなさい!」
って言ったんだよね。
いま思い返しても、頭の固そうなおばさん先生だったわwww
でも、なんで恥ずかしいなんて思うのか理解できないわたしは、先生を無視してwww、お姉さんに手を引かれて放送室に向かった。

そして、マイクの前に促されたわたしは、そのとき大好きだったアニメ「小公女セーラ」の主題歌を、アカペラで熱唱した。

「わたしのむねの~かたすみに咲いてる~小さな花に~名前は無いけど~♪」
っていう歌い出しの、ちょっと悲しげなマイナーコードの歌。
(今でも歌えるほど、印象的な思い出なんだな。www)
アカペラで歌うわたしの声が、給食中の全校放送で流れるって、シュール過ぎて今思い出しても笑えてくる。

そのあと、先生や友達にヤバい奴認定されたのは、説明するまでもないよね(笑)

でもまあ、なんと思われようとも、全校放送で歌ったわたしは、とても清々しくて晴れ晴れした気持ちだった。

もうこのころから、日本の学校教育にはハマらない子どもだった。
(よく小学校の教師なんてやってたなwww)

自分の意見はしっかりと持って、でも、他人のことも否定しないっていう信念みたいなものは、このころに培ったものなんだろうなあ。

おかげで、今の世の中の茶番にも気づけたし、マスクや消毒やワクチンなど必要ないと思えるものは、誰にも忖度なくNO!と言えるんだと思う。

アメリカと日本の学校を両方経験したわたしが思うのは、日本の同調圧力は何も今に始まったことじゃないんだよね。

もはや「同調圧力」と書いて「日本人気質」と読んでもいいwww

みんなと一緒だとラクな人が多いんだろうけど、そろそろ今の世の中、それじゃあヤバいんじゃない?と思っているわたしなのです。

アメリカナイズされる必要はないけど、日本人特有の同調圧力と忖度って必要ないんじゃないかなあ・・・。

↑ この歌www

サビの歌詞がすばらしいっ。

「わたしだって、泣こうと思ったら
 声を上げて いつでも泣けるけど
 むねの奥に この花ある限り
 強く生きてみようと思う」

この歌を選んだ小1のわたし天才やな(笑)
その頃のユミちゃんに、この歌詞が刺さりますなあ(涙) 

この記事が参加している募集

今こんな気分

わたしの記事がお役に立てれば幸いです。 これからも、クスっと笑っていただけて、それでいて皆様のお役に立てるような記事を書いていきたいと思います。 よろしければ応援よろしくお願いいたします💓