見出し画像

創作大賞向け修正版掌編小説「Cup Yakisoba」

■Cup Yakisoba■

「700円以上のお買い上げですので、ここから一枚引いてください。キャンペーンのくじ引きです」

 コンビニエンス・ストアの店員が丸い穴の開いた箱をレジ台に置く。
 私は毎朝出勤前にコンビニへ寄り、朝食を購入する。
 タバコ420円、カップみそ汁120円、サラダチキン200円、ペットボトルのお茶100円。占めて840円。特段キャンペーンをモチベーションにしているわけでもなく、ルーティンでの買い物。たまたま条件がそろっただけだ。箱に手を差し込み一枚取り出す。それには商品の写真と名称が記載されていた。
『カップ焼きそば超大盛』
「あ、あたりですね! 商品、お持ちしますねー」
 レジ担当の店員は売り場に向かい、商品を持ってくる。それを見て私はおののく。その名に嘘はない巨大サイズのインスタント食品。これを持って出社するには相応の勇気が要る。そもそも邪魔だ。私は店員に話しかける。
「あの、ちょっと大きすぎるんで、家の近所の店舗で交換するってできますかね?」
 一瞬間をおいて店員が答える。
「はい、もちろん大丈夫ですよ。さすがにお荷物になりますよねー」
「では、そうさせてもらいます」
「行ってらっしゃいませー」
 店員は朗らかに返す。

 その週末土曜。10時過ぎに起床し、散歩ついでに近所のコンビニで挽きたてコーヒーを購入。札入れから代金を支払おうとすると、例の引換券が挟まっていた。そういえば、同じフランチャイズだな、と気づく。
「すみません、この引換券って使えますか?」
 私がそれを差し出すと、「少々お待ちください」と言い、商品を持ってきてくれる。
 店員は弁当用の茶色い袋に、割箸ごと入れる。
 受け取った私は、入口チャイムのメロディを後に、店を出る。
 30分ほどの散歩を終え、帰宅する。
 シンクへ空になったアイス・コーヒーの容器を放り、調理台の横に超大盛のカップ焼きそばを袋ごと置く。カップ焼きそばなんて、学生のとき以来だ。しかも、そのころの商品に比べてサイズは約二倍。ここ数年の人間ドックの結果を鑑みて、日常的に食事には気をつけているが、くじ引きに当たったのも何かのめぐり合わせかもしれない。たまにはいいだろう。
 私は休日の昼食をこれに定めることにし、パッケージの成分表示を見て驚愕する(この行為はここ数年の習慣になっている)1,000キロカロリーを超えていることが示されている。炭水化物含有量は、約130グラム。普段私が摂取する倍以上の量。まあいい、食すると決めた以上は覚悟を決めて取り組もう。ビニールの包装を剥がし、白い蓋を開けて唖然とする。なるほど、たしかに超大盛。普通サイズの油揚げ麺の塊がふたつ鎮座している。シンプルかつ大胆な発想に、思わず笑みがこぼれる。なかなかの思い切りだ。商品企画者と決裁者の勇気に幸あらんことを。

 ティファールの湯沸かし器に水を満たし、スイッチを入れる。一食1,000キロカロリーの大峰を登攀するにはウォームアップは必要だろう。私はキッチンでスクワットをしながら、沸騰を待つ。
 数分後、カチリというスイッチ・オフの音で湯が沸いたことが認識できた。
 さっそくパッケージ内の水位を示す線まで湯を満たす。なんだか少し胸がわくわくしてきた。学生時代の楽しかった記憶が微かに思い浮かぶ。いわゆるあるある。シンクに湯を捨てる際に熱膨張にて『ベコッ』という音がしたこと。湯切りの際に蓋の押さえ方が甘く、麺をシンクにぶちまけたこと。これらの経験は、全人類が共有するもの。この焼きそばの麺が繋いだ宇宙。われわれは、カップ焼きそばで繋がっている。そんなつまらない逡巡は休日にふさわしい。兼業文筆家の私としては、他人から見て、どんなにつまらない思索でも糧になる(こともある)。
 慎重に湯切りを終えて蓋を開けると、蒸気とともに油揚げ麺特有の香りが鼻腔に送りこまれる。懐かしい。パッケージに表記されているレシピ(?)に従い、ソースをかける。割りばしで、ぐりぐりと均等にまぜる。同じく添えられていたふりかけをまんべんなく振りまく。乾燥した海苔と紅ショウガの粉末が麺になじむと、同じく食欲をそそる香りが蒸気に乗って私の顔を包む。
 リビングのテーブルに、完成した超大盛カップ焼きそばと、ミネラル・ウォーターで満たされたコップを置く。あらためてその蓋を開けると、麺、ソース、ふりかけ三位一体になった芳香が周囲を満たす。なんだか神妙な気分になりつつも、割りばしでひと手繰りし口に運ぶ。その瞬間、学生時代にも抱いた感情が電撃のように走る。

ーー焼きそばなのに焼いていないーー

 これは文筆家、言葉の在り方を常に追い求める性・宿命を持つ人間には避けては通れない問い。私は箸をとめて容器の上にそれを置く。焼いていないのに焼きそばとして成立している。消費者に肯定されている。焼いていないのに、だ。私はこの事象に対峙し、迷宮へ迷い込んだような錯覚に陥る。これも学生時代に抱いた感情だ。当時つきあっていた恋人にその話をして、呆れられつつそのまま破局した思い出も記憶から呼び起こされる。
 この運命は、乗り越えなければならない神からの啓示であると確信する。創造主たるメーカーは「焼きそば」という名称を揺るがさない。決してブレない。焼いていないのに明文化して言い切っている。そして、多くの消費者に受け入れられ大人気商品として定着している。皆、なんの疑問もないのだろうか? しかし、その結果を鑑みると、私の疑問を上回る説得力が、この商品を肯定している。
 私はこの設問に、自分なりの答えを示さなければならない……。

『……焼くべし!』永い思索の果てに、焼きそば(焼いてない)は冷めつつある。私は、シンク下の収納庫からフライパンを取り出す。往年のイチローがバットを構えるがごとく、左の二の腕に右手を添え、自身の決意を自身に表明する。
 ガス・コンロに置いたフライパンにサラダ・オイルを投入。ふつふつと沸き立つ薄黄色の液体に、冷め切ったカップ焼きそば(焼いていない)を投げ込む。瞬時に顕在するメイラード効果。甘く切ない香りが、私の食欲を迷走させる。薄く敷かれた油の上で、それは小刻みに踊る。高温のそれにさらされたカップ焼きそばは、新たな調理のステージをこじ開けようとする。私がガス・コンロを止めると、フライパンから白々とした蒸気が吹き上がる。先ほどのものをはるかに上回る芳香が私を包み込む。その魅惑に耐え切れず、熱々のフライパンから直接、菜箸で麺を手繰る。若干、エッジのあるソースの風味は消えてしまったものの、焼きそば(焼いていない)は、焼きそば(焼いてある)になっている。学生時代の記憶と今の自身の所作が相まって、想定以上の味に直面する。奇蹟。ふと思いついて、冷蔵庫からマヨネーズを取り出して振りかける。混ぜる。うまい。あまりのうまさに思考停止し、あっという間にすべてを平らげた。利便性とコストに重点を置いた湯戻し・湯切りもいいだろう。その一方、名称に起因した手法でチャレンジし、想定以上の収穫を得ることも大いに実りあることだ。

 箸をおき、手を合わせる。「ごちそうさま」。食前のスクワットと散歩で消費したカロリーは300ほど。どうやって辻褄を合わせようか。まあ、たまにはいいだろう。この体験こそ得られがたい貴重なものなのだろうから。
 総じて述べるならば『焼いていても焼いていなくても焼きそばは焼きそばである』

 ふと本棚を見やると、三島由紀夫の「金閣寺」。その背表紙が目にとまる。
 金閣寺も焼けていようがいまいが、当人の認識下で焼けているのであれば、焼けているのである。

<了>

※ この掌編のテーマとしては水上勉バージョンの「金閣寺」がフィットしますが、終盤の表現においてわかりやすいため、あえて三島由紀夫の名を出しました

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?