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#33_目的を忘れるほどの熱中

國分功一郎さんの著書『目的への抵抗』(2023年、新潮社)を読みました。最初の3行で撃たれました。

自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。

教師は子どもたちに「その目的は何だろう?」「何のためにやるのだろう?」と問いかけます。それは、子どもたちがActivity trapに陥らないための大切な問いかけです。

しかし、私たちの生活のなかには「目的」を超越する場面を目にすることがあります。國分さんは次のような例を出しています。

たとえば文化祭の出し物を決めるために、学級で話し合いをしますね。その最初には「文化祭に参加する」という目的がある。その目的によって話し合いが始まるわけだけれども、話し合いそのものが、話し合われている内容によってワクワクするものになっていくことがありますよね。簡単に言うと楽しくなるということです。その時、その話し合いは、もはや、文化祭に参加しなければならないから行われている話し合いではない。話し合いで決まった出し物を準備するにあたっても、その過程そのものが楽しみになることがあります。これは学校の文化祭では稀にしか起こらない経験なのかもしれませんが、確かにそういうことはあります。(pp.177-178)

私はこの一節を読みながら、探究にどっぷりとハマっていく子どもたちの姿を思い起こしました。

確かに、探究を始めようとするときには、一定の目的があります。「自分の将来展望を想像・創造してみよう」「地域の課題を解決してみよう」「世界とつながってみよう」等々、目的が設定されます。そして、その目的を実現するために様々な探究活動を展開していきます。その中で、探究にどっぷりと浸かった子どもたちは「探究していることそのもの」「探究それ自体」に楽しみを感じ、喜びを見出し、探究に浸っていきます。本当は設定した目的を実現するためだったはずの探究が、目的を超越してしまうのです。こうして、探究それ自体に楽しみを感じ、喜びを見出し、探究に浸った子どもたちは、ある種の幸福感を感じていきます。「探究している私は、なんと幸せなんだろう」「こんなに熱中できるものがあるなんて」という感覚を覚えるようになっていきます。私は、そんな子どもたちと出会ってきました。

そのとき、子どもたちは、自由になっています。

自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。

なるほど、もしかすると、探究とは、子どもたちが自分で「自由」を手に入れるためのきっかけ(引き金/トリガー)なのかもしれません。

そう考えると、「どんな仕組みをつくると、子どもたちが自分で自由を手に入れるためのトリガーを引けるか?」という問いが浮かび上がってきます。この問いについて、じっくりと、ゆっくりと考えてみたいと思います。

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