妄想1(後編)・堀口大學『月下の一群』(新潮文庫、初版1954年)、四元康祐『偽詩人の世にも奇妙な栄光』(講談社、2015年刊、初出2014年)』

私が堀口大學『月下の一群』の中でいちばん気に入っている詩が、フィリップ・ヴァンデルビルの「死人の彌撤」である。そのことをフランス在住の先輩に話したところ、その先輩もその詩に興味を持ち、原詩で読みたいと思い調べたところ、原詩はおろか、「フィリップ・ヴァンデルビル」という詩人すら見つけることができなかったというのである。フィリップ・ヴァンデルビルとはいったいどんな詩人なのか?

もう少し手がかりがないだろうかと、『月下の一群』を調べてみることにした。
現在比較的容易に入手できる『月下の一群』としては、新潮文庫版と、岩波文庫版と、講談社文芸文庫版と、思潮社版(『現代詩文庫 堀口大學訳詩集』)がある。よく見てみると、それぞれ微妙に訳し方が違うことに気づく。
「私自身にも気に入らぬ晦渋で気位だけ高い、多くの書物を私は残すだらう。
しかも私の唯一の言ひ訳は、それらの書物を、自分が生きて来たといふにあるが、
その日、この言ひ訳は、もはや言ひ訳にならないだらう」(新潮文庫版)
「私自身にも気に入らぬ晦渋で気位だけ高い、多くの書物を私は残すだらう。
しかも私の唯一の云ひ訳は、それらの書物を、自分が生きて来たと云ふにあるのだが、
その日、この云ひ訳はもはや云ひ訳にならないだらう」(講談社文芸文庫版)
「私自身にも気に入らぬ、晦渋な気位高い、多くの本を私は書いた事だらう。
さうして私の唯一の云ひ訳は、それらの本を私は生きて来たのだと云ふにあるのだが、
その日この云ひ訳はもう言ひ訳にならぬだらう」(岩波文庫版)

「翌日、墓地へ、一人の老女が、百合を抱いて来るだらう」(新潮文庫版・講談社文芸文庫版)
「翌日墓場へ一人の老女が百合を抱いて来るだらう」(岩波文庫版)

大きく分けて、新潮文庫版・講談社文芸文庫版と、岩波文庫版に分かれると思われるが(思潮社版は、岩波文庫版と同じ)、新潮文庫版と講談社文芸文庫版も、微妙に違うところがある。
岩波文庫が1925年の初版版に拠っており、講談社学芸文庫が1952年の白水社版に拠っており、そして新潮文庫は1954年の刊行であるということからすると、どうも堀口大學先生は、版を変えるたびに少しずつ手を加えているようである。
…と、ここまで調べたからといって、原詩に近づくことなどできないのだが、翻訳詩が、実に奥深い世界であることを思い知らされるのである。

さて、そこでもう1冊の小説を思い出す。
四元康祐『偽詩人の世にも奇妙な栄光』(講談社、2015年刊、初出は2014年)という小説である。
中学生のころに詩のすばらしさを知った主人公は、数多くの詩を読み、自らも詩を作ったりしていたが、大学生の時に限界を感じ、詩人になる夢をあきらめ、商社に勤めることになる。
商社の社員として世界をまわっていく中で、各地で多くの詩人や詩と出会う。その多くは、日本でまったく知られていない詩人である。日本に戻ってから、それらを翻訳し、それを自分の詩として発表する。その詩の内容はすばらしく、またたく間に注目され、その主人公は流星の如くあらわれた詩人として文壇で華々しくデビューするのである。
ところが、しばらくしてある事件が起こる。無名だと思っていた外国の詩人が、ある世界的な賞をとり、一躍有名になった。日本でもその詩人が注目され、その詩を日本語に翻訳してみたところ、その主人公が自分の詩として発表したものと、うり二つだったことがわかったのである。かくして、主人公による詩の剽窃が明るみになり、彼は偽詩人の烙印を押されることになる。
…という内容の小説。実に不思議な雰囲気を醸し出す小説だ、というのが、僕の読後感である。
「偽詩人」とよばれた彼は、本当に詩の才能がなかったのだろうか。剽窃をせず、これを翻訳詩として発表したら、彼はやはりその才能を認められていたのではないだろうか。堀口大學先生のように、翻訳詩もまた奥の深い世界なのである。

…と、ここまで考えてきて、一つの妄想が浮かんできた。
それは、フィリップ・ヴァンデルビルという詩人は、そもそも存在しなかったのではないか、という妄想である。
堀口大學先生は、フィリップ・ヴァンデルビルという架空の詩人に仮託して、自分の詩を翻訳詩として発表したのではないだろうか?
『偽詩人の世にも奇妙な栄光』という不思議な小説を読んで、そんな妄想が頭をよぎった。
もちろん、これはまったくあり得ないことである。むしろ、まったく無名の詩人の詩までも訳詩した堀口大學先生の律儀さに、敬意を表すべきなのである。

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