忘れ得ぬ人々・第10回「かけ橋」

私が韓国に留学していたのは、2008年12月~2010年2月末までの1年3カ月間である。そこでは非常に多くの出会いがあったが、それを一つ一つ書き出すと1冊の本になるほどである。

日本の大学院生のTさんは、2009年6月から11月末までの半年間、交換研修という制度で、ソウルにある博物館で研修をした。
Tさんは、背が高くてさわやかな青年である。人間性もすばらしく、まわりに対する気遣いも抜群である。たちまち、研修先で人気者となる。研修先の誰もが、半年で日本に帰ってしまうことを惜しんだ。
私も、彼と何度か仕事をしたり、旅行をしたりしたが、好青年だなと素直に思う。
さて、私が韓国をそろそろ去ろうとする2010年2月のある日、忠清北道の清州というところで学会があるので参加にすることにした。
会場で、Tさんと再会した。所用で数日間、韓国に滞在しており、学会があると聞いてやってきたのだ、という。
彼は、学会のスタッフでないのにもかかわらず、さりげなく椅子や机を運んだり、受付を手伝ったりする。それが自然にできるのがすごい。好青年ぶりは健在である。
私はこちらに来て、もう何度、学会に参加しただろうか。この間、かなりこまめに、学会に参加した。日本から長期滞在したこの分野の研究者で、これだけ韓国の学会に参加した人間は、まずいないだろう。
そして、学会の内側ともいえる世界にも、何度か立ち合ってきた。韓国語がわかるようになるにつれ、学会における議論の内容や、内部事情がわかるようになってきた。そしてそのたびに、「カルチャーショック」を受け、ときに精神的なストレスを感じたこともある。
知れば知るほど、知らなくてもいいことに遭遇するものなんだな。まさに「アルジャーノンに花束を」だ。
だから学会に参加することは、思いのほか精神を消耗する。とくに消耗するのは学会のあとの懇親会(会食)である。日本の学会でも懇親会があるが、こちらの懇親会はその比ではない。この日も、1次会で食事、2次会でビールを飲んだあと、3次会でカラオケに行くことになった。
2次会が終わり、大部分の人が帰ったのだが、私やTさんはつかまってしまい、カラオケに連行される。
そうしたなかでもTさんは、韓国の歌を上手に歌って場を盛り上げる。どこまでも好青年である。
3次会で終わるかと思いきや、4次会にも連れていかれ、夜12時半、ようやく解放された。
韓国の先生方が5次会に向かうなか、私たち「若手」は、歩いて宿舎に向かう。
途中、Tさんが私に話しかけてきた。
「先生」。彼は私をこう呼ぶ。私からすれば、Tさんは少し年下の後輩、という感覚でいたのだが、20代半ばの彼からすれば、やはり私は「先生」にみえるのだろう。
「この1年3カ月、どうでしたか?」
「はっきり言って大変でした。この1年で、10年分くらいの体験をした感じです」と私。「体をこわさなかったのが、不思議なくらいです」。
「学生の僕が言うべきことではないかも知れませんけど、先生が韓国で勉強されたのは、本当にすごいことだと思います」
例によって、彼の気遣いの発言である。
「どういうことです?」と私。
「僕みたいに、韓国をフィールドに研究している人間が韓国に留学することはあたりまえなんです。でも、先生のように、日本をフィールドにして研究している研究者が、韓国の学界に深く関わる、ということは、いままでほとんどなかったでしょう。じつは韓国の学界にとっていちばん必要とされるのは、まさにそういう研究者だと思うんです」
お世辞のような彼の言葉を聞きながら思い返す。たしかに、もともと韓国ではなく日本をフィールドとしていた研究者が、韓国の学界にここまで深く入り込むなんてことは、私の先輩方を見渡してみても、ほとんどなかったように思う。
「先生がこれから、韓国の学界と日本の学界のかけ橋になれば、韓国の学界も大きく変わっていくと思うんです」
愚鈍な私を見かねて励ましてくれた彼の言葉に、私はなんと答えてよいかわからない。
かけ橋、か。
かけ橋、と簡単に言うが、実はいくつもの越えがたい困難があることを知っていた。日本と韓国の、両方の事情を知っているだけになおさらである。やはり知りすぎる、ということは、不幸なことなのだ。自分にはそんな仕事、とてもつとまらない。
「うっかり韓国に留学してしまったばっかりに、えらいことになってしまったなあ。私にそんな力なんか全然ないのに…」
そうつぶやくと、Tさんは言った。
「これから先生は、韓国と日本とのあいだで、今まで以上にいろいろな仕事をされるようになると思いますよ。それで、学界は確実に変わっていくと思います」
私自身は悲観的なのだが、楽観的に考えるのも、彼の持ち味なのだろう。
「ま、これも運命とあきらめて、これから重い十字架を背負っていくしかないのかな…」
と、冗談交じりに言うと、
「僕にできることがあったら、なんでもお手伝いします」
と彼は言った。最後まで、相手を気遣う青年である。そしてその言葉に、少し救われた気持ちになった。

Tさんはその後、研究者を続けるという選択肢を選ばず、出版社に勤務した。その後会う機会はないが、持ち前の人間力で、なんとかやってることだろう。
私はといえば、Tさんが予言した「かけ橋」とまでは到底言えないが、いまでも細々と、韓国との交流を続けている。

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