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キヨの物語(其ノ壱)

大木の上で微睡みに身を任せるのは、キヨの唯一と言っていい安心できる行為だった。
烟った空を眺めて、気が向いたら目を閉じて、瞼の裏の明滅をイメージ通りに動かしてみたり、その奥の何かを捉えようと目を凝らしてみたりしていた。大した遊びを知らないキヨにとっては、頭の中の遊具だけが自由に使える玩具だった。
丁度、赤い明滅が炎の形をとって、鳥に進化して飛び立とうとしていた。遠くまで、遠くまで、羽根を広げて何処まで行くのだろうと、手を伸ばしたその時だった。
「キヨ、降りてらっしゃい!」
母親の声だった。
母は、キヨが木の上に登って落ちて怪我をする日を預言者のように心配していた。そうなることが宿命であるとでも思っているのか、とキヨはうんざりしていた。けれども、母を心配させたい訳でもない。
いつもは見付からない時間だけ楽しむことにしていたのだが、うっかり時間の感覚を出掛けさせていたのだった。
慌てて降りると、心配と怒りに目を三角にしている母の前に姿勢を整えて立った。
「いつも言っているでしょ、怪我をしたらどうするの」
開口一番、甲高く叱られる。
言い訳をしようものなら、火に油だとキヨは平謝りした。その裏では、あの鳥の行く末を奪われたことに拗ねた思いを抱いていた。
「貴方ね、先生がもう5分も前にいらして、待ってらっしゃるのよ。葉っぱを落として急いでちょうだい」
母が、キヨの髪にしがみつく枯葉を取りながら背中を押した。
先生が来る日。気が重くなる。
急激にお腹の辺りが軋んだのを感じたが、母は気付いていない。
「先週の試験、先生のお陰でとても良い点を取ったってお伝えしたら、喜んでらしたわ。頑張ってる証拠ですって」
「……うん」
赤い鳥が、燃え尽きて落ちた幻覚が目の奥に焼き付く。あの鳥は、行く宛てがなかったのだろうか。
この国では、可もなく不可もなくといった大きさであろう家が近付いて見えてくる。キヨは、自分が歩いているのか家が滑ってきているのか、とふざけて考えた。
そうしていると、幾らか気が楽になる。
母が、隣で歩を進めて暗にキヨを急かしていた。キヨには巨大に見える家が、もう目の前まで迫っていた。
客間に押し込まれると、そこにはお下がりと思しきスーツを着た男がソファに腰かけていた。先生だった。
「先生、お待たせしてすみません。この子ったら、また木の上に登って寝ていたんですよ」
母が申し訳なさそうに頭を下げた。
キヨは、なんとなく、すまない気持ちになってその姿から目を逸らした。傍から見れば、叱られて拗ねている子どもそのものの姿に映るだろうとは考えなかった。
「いえいえ、男の子なんてそんなものですよ。キヨ君、木の上は気持ちいいかい?」
若い先生は、母とキヨのどちらにも味方するつもりらしかった。対立している訳でもないのに、どうして気を使って和解させるようなことをするのか、キヨには理解できなかったが、小さく頷いておいた。
「すみません、本当に。では、よろしくお願いいたします。お夕飯も食べてってくださいな」
母は、息子に甘いこの先生に対して甘かった。先生もまた、優しくしてくれる年上の女によく懐いていた。
「先生」
ぺこぺこし合っている大人に辟易したキヨは、極力無邪気な声に聞こえるように先生を呼んだ。
「あぁ、ごめんね。じゃあ行こうか」
やっと、先生がぺこぺこを止めた。
内心でため息をつき、キヨは自室へ歩いた。後ろからヒヨコよろしく着いてくる先生は思考から追い出していた。
数時間、先生はキヨに色々と教えこんだ。
文豪たちの文章力、数字の羅列、教育とは如何なるものか。先生は熱心だった。
しかし気合いの入った授業も、料理の匂いが漂ってくると勢いが落ちる。キヨは、ぐぅと鳴りそうな腹を抑えて授業の終わりを待った。
先生がすんと鼻を鳴らす。キヨの顔を見て、爽やかと言って差し支えない笑顔を浮かべた。
「お腹空いちゃったね。もうご飯の時間みたいだ」
「そうですね」
「キヨ君は熱心に聞いてくれるから、つい話しすぎちゃうな」
「そうですか」
「キヨ君は、勉強が好きなんだろう。特に、小説の読解には熱心に見えるよ」
「そう、ですか。……多分、そうなんです。先生、僕、先生にお願いがあるんです」
「なんだい?」
「僕……あの、学校の教師になるのは無理だと思うんです。……でも、両親には言えなくて。ならない、なんて言ったらきっと怒られちゃう」
先生が口を開いたタイミングで、部屋の扉が三度ノックされた。夕食の支度が済んだ合図だった。
「この話は、また今度」
先生は、困ったように笑って扉を開けた。
引き止めたかったが、諦めた。煉瓦が積み上げられ、堤防が作られていく感覚がする。
居間では、両親が料理を前に座っていた。先生のために張り切ったのだろうご馳走は、確かに美味しそうに見える。
「さぁ、召し上がってください」
母は笑顔だった。その隣で、父は厳格そうに口を引き結んでいた。
妻が若い男を甘やかすことに、底知れぬ不快を覚えていることはキヨだけが確信していた。
「美味しそうです、いつもありがとうございます」
先生は、心底嬉しそうだった。
両親と先生が、キヨには難しい話をしたり、キヨの今後について話したりしている間、味のしない料理を胃の中へ送り込むことに集中していたキヨは、酷く疲れ切っていた。


店の片付けをしながら過去を脳内に上映していたことに気付き、キヨは首を振った。過去を思い返したところで意味などないというのに、時折こうして思い出すことが苦しかった。
キクが定刻通りに帰宅していてよかった、と溜息が零れる。気のいいあの男は、こんな姿を見たら心配して話を聞き出そうとするだろう。
草臥れたテーブルに腰を下ろし、虫が音を立てている電球に目を向ける。
譲り受けた時にはもうこの店はボロボロで、建物が崩れるか客が来なくなるかのどちらが先に店を襲うかを競っている状態だった。
薄暗い店内は、戦時中を淡く残しているかのように不安定さを伴っている。
キヨは知らず、自身の喉を緩く締めるように触れていた。声を削ぎ取られたこの喉は、今息を吸って吐くことだけのために存在している。
この喉から声が出なくなった日、キヨは痛みを嘆くよりも安心に浸っていた──


新しい校舎は、町で1番大きなものだった。
馴染んできたスーツに違和感を拭えないまま、キヨはその校舎で教師として奔走していた。
子ども時代、無理だと感じて逃げようとしていた職は、就いてみて更に不和を増長させるだけだった。けれども、なってしまったものは仕方ない。
生徒たちは時代のためなのか、従順で大人びた性質を持っていて、キヨには有り難かった。しかし、そんな子ども達に先生先生と呼ばれると、肩身の狭い気持ちでもあった。
「先生、戦争はいつ終わるんでしょうか」
それは、父が兵士として、母が看護師として戦地へ赴いている少女の言葉だ。隠れてさめざめと泣いているのを目撃したことがあるだけに、かける言葉が見付からない。
キヨの沈黙を、両親の帰宅は絶望的だと受け取ったのか、少女の瞳が潤み始める。
キヨは、咄嗟に口を開いた。
「……すぐだよ、きっとすぐに終わる」
なんと白々しい言葉か。
教師である自分が、無責任な優しさを与えることは罪になるのではないか。キヨは、逃げ出したい気持ちを飲み込んで笑って見せた。
「人は美しいばかりじゃない。でも、誤ちに気づけないほど愚かでもないはずなんだ。だから、こんな醜いこと、すぐに終わっていいんだ。だから……だから、戦争なんてあっという間に終わる」
それはただ、キヨの願いだった。
少女は泣きそうな顔で、それでも涙を堪えていた。キヨは、その頭をそっと撫でる。
「大丈夫。大丈夫だからね……」
それ以外に、何を言えばいいのかわからなかった。教師として、あまりにも無責任で残酷だとは理解していながら、それでも。
少女はやがて、安心したように胸を擦りながら教室へと戻っていった。
残されたキヨは、誰もいない職員室で呆然と立ち尽くしていた。どっと疲れて、我に返ったら床に座り込んでしまいそうだった。
──いつまで、こんなことを続けるんだろう。
キヨは、窓の外を半ば睨むように見つめながら嘆息した。
いつまでこんな。それが教師に対してか戦争に対してか、どちらへの思いなのかわからなかった。

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