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叶えた先にあるもの

エリは、いつものようにカウンター席を我がものにして、悠々と酒を飲んでいた。
淡い色の髪を高く結び、どこかの国の民族風の洒落た服を纏った彼女は、その美貌で酒場の客の視線を盗む。普段はその視線に淑女らしい笑みを返しているエリだったが、今日は沈んだ空気を感じさせた。
キヨは頼まれるままに酒を出し、成り行きを見守る。
拗ねたような、怒ったような、悲しんでいるような。それこそ酒のように色々なものを混ぜ合わせたエリは、ただ黙って飲んでいた。
周りの喧騒も、恐らくは彼女の耳に届いていないのだろう。騒いでジョッキを倒した客にキクが呆れて頭を叩く音にも、眉ひとつ動かすことがない。
キヨはその客に視線を向けていた。
「ねぇ、キヨちゃん」
エリが、やっと口を開いた。
エリに視線を戻すと、彼女は赤らんだ頬をつまんで引き伸ばしている最中だった。そして、酔いのせいか潤んだ瞳をキヨに向ける。
無邪気な子どもなのか、妖艶な大人なのか、判断に迷う危うさがあった。
キヨは、首を傾げて言葉の続きを促す。
「この店で働いちゃダメかしら?」
頬から手を離したエリが、悩ましげな表情で言う。
「お願いよ、キヨちゃん。悪いようにはしないわ。あたし、ウエイトレスしてたこともあったのよ。お酒を運ぶのだって、得意なんだから」
エリは、早口に捲し立てた。
カウンターに乗りあげんばかりに身を乗り出すエリに、キヨは一歩後ずさる。丁度台拭きを取りに戻ってきたキクが、エリを優しく椅子へ押し戻した。
「おいおい、どうしたよエリ。お前、こんな場末の酒場で……悪くとるなよキヨ……本気で働くつもりか? 家庭教師、ワリのいい仕事だし、好きだったろ?」
鳩が豆鉄砲を喰らったように目を丸くするキクを、エリはほとんど睨むように見据えた。尖らせた唇では、気迫も何もあったものではなかったが、キクは肩を竦めて見せた。
エリは、大きくため息をついて手を組み合わせる。まるで、祈りを捧げる者のような神妙さだった。
「上手くいってないのよ。あたし、人にモノを教えるのがあんまり得意じゃないみたい」
「そりゃまた……」
「お願いよぉ、キヨちゃん。あたし、キクよりもばりばり働くわよ?」
「おいおい、随分な言い草だな」
小気味のよい掛け合いをする二人を眺めて、キヨはやれやれと首を振った。
エリに言うべき言葉も見当たらないので、まずは事情を聞くべく、目で訴える。そこそこに付き合いの長いエリには、心意が伝わったらしかった。
キクとの漫才じみた会話を強制的に中断して、キヨに顔を向ける。
「なんていうのかな……怖くなったの。自分が勉強してた時とはまるで違うわ。あたしが、子どもたちの将来に責任を持たないといけない。間違ったことを教えてしまったら、子どもたちにとって不利益だし、荷が重いのよ。そりゃあね、子どもは好きよ? でも、続けていくために自分をすり減らして、重たい責任を背負って歩くのが嫌になる時があるの。あたしには、人の人生に手を加える程の賢さはないもの」
エリはそう躊躇いがちに言うと、口を噤んだ。
「そこまで深刻になる必要ないんじゃないか? 結局、学んで将来を選ぶのは子ども自身だろ? お前に、そこまでの責任は誰も求めないよ」
優しく、宥めるようにキクが言った。恐らくは、エリを妹と重ねて心配する気持ちが育っているのだろう。
キヨは、エリに同情する気持ちが湧いていた。自身の過去が、影のようにエリの背後に立っているのが見えるようで、眉を寄せる。
俯くエリと、エリを伺うキクには、その苦い表情は知られていなかった。
キヨは、そっとエリの頭に手を置いた。まるで妹か娘にするように、優しく撫でると、目を細めて頬を緩める。
顔を上げたエリは、今にも泣き出しそうだった。
「あたし、自惚れてるわけじゃないのよ? わかってるわ、あたしは他人の人生をどうこうできるほど、大層な女じゃないって。でもきっと、あたしも弱いのね。時々、怖くて堪らなくなるの。このまま家庭教師を続けていて、あたしは大丈夫なのかって。割り切れる後悔をすることができるのかって」
気を鎮めようとしているのか、エリは途中から笑顔を見せて言い始めた。そして長くため息をつくと、ばったりと顔を伏せてもごもごと喋る。
キヨは、キクと顔を見合わせて頬を掻いた。
「お前、そんなに考えててよく今まで家庭教師やってな。偉いよ」
キクは、エリの背を軽く叩いた。その様子を見ながら、キヨは慎重に文字を起こす。
書いては消し、書いては消しを何度となく繰り返した。
やっと書き終えた頃には、紙が黒ずんで、やや読み取りにくくなってしまっていた。エリの肩を叩いて、紙切れを手渡す。
『恐怖と向き合って選んだ道なら
それは逃げ出したとは言わない
答えが出てるならそれに従うといい』
簡潔にまとまらなかった言葉は、キヨにしては長々としていた。エリは、読み終えると紙切れを胸元で抱き締めるようにした。
「ありがとう、キヨちゃん」
エリは、薄らと涙を浮かべて笑った。
キヨはその顔に頷きながら、今度は躊躇いなく鉛筆を走らせる。
『うちでは雇えないけど
いい所を紹介するからね』
茶化すような文字に、エリはくすっと肩を揺らした。
「ありがとう。そうね、選択次第では紹介してもらうことにするわ。でも今は、お酒をいただこうかしら」
「切り替えの早いこった」
キクが肩を竦めて茶々を入れた。
「うるさいわよ。女は男より逞しいんだから。いつまでもめそめそしたりしないの」
「そうかいそうかい。付き合ってらんないよ」
「あんたはお呼びじゃないわよぉ、だ。キヨちゃん、今のあたしにぴったりのお酒をお願い」
キヨは、小さく頷いて手を動かした。キクが場を離れると、エリは髪の毛を弄りながら静かに待つことする。
しばらくして、甘い香りの酒が目の前に提供され、エリは居住まいを正した。
「これ、なんていうお酒?」
尋ねれば、キヨは薄らと笑みを浮かべて鉛筆を手にする。
『怖がりのタイム』
エリは、その酒の名を頭の片隅にしまった。そして、帰ったら辞典を開いて解読してやろうと、甘い香りの酒を飲み込んだ。

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