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メモと不安

昼時、あまり客のない時間帯の酒場には、数人の客の囁きや、ざわざわとした外の音や、ジョッキが小さくぶつかる音だけが存在している。
アンは、隅にある一人用のテーブルでジュースを飲み、ぼんやりと虚空を見つめて過ごしていた。ピントのズレた写真のように、周りの光景は彼の脳に届いてはいない。感慨深そうな顔をして、思考を閉ざしている状態だった。
手元には、端の丸まったメモ用紙が置かれており、ペン先が紙に隠れている。それは、何か書こうとしていたのに持ち主が放棄したことを明確に示していた。
細く息を吐き出して、ジュースを飲もうとジョッキを傾けたアンは、中身が空であることに初めて気が付いた。誰も見ていないのに顔を赤らめて、静かにジョッキを置く。ちらちらと周りを確認し、失態を見られていないことに肩を下げた。
立ち上がると、カウンター席までゆっくりと歩み寄り、黙々とカウンター周りの掃除に勤しむ店主の肩を叩いた。
「あ、あの……おかわり、いただいていいですか……?」
おずおずと発した声に、店主は頷く。するりとアンの脇を抜けると、カウンターの奥へと戻った。席へ戻るアンには目もくれず、黙ってジュースをジョッキへ注ぐ姿は、どこかよそよそしいものに見える。
アンは、柔らかな足取りで飲み物を運んでくる彼を観察しながらメモをテーブルの端へ寄せた。
空いた場所に置かれるジョッキに、小さな声で礼を言う。店主は、微かに頭を下げてまたカウンターの方へと戻っていった。
酒場でジュースを飲むのは僕くらいだろう、とアンは引き攣った笑みをして一口飲む。そこいらで売っているような、なんてことのない味だった。
店主を見ると、淡々と仕事をしている。
酒場で毎回ジュースを飲む客を疎ましく思ってはいないだろうか、と少し不安に思った。そして、テーブルの上に散らばるメモに視線を落とす。
書いてあるのは、仕事上の反省点や日常生活上の注意点だ。また、ちらりとカウンターを伺う。この酒場の店主もメモのようなものを近くに置いていて、客に対してそれを見せることがある。表情の読めない店主は怖いが、そこには親近感を抱いていた。
彼もメモに頼っている。
そう思うと、仲間がいるような気持ちになるのだ。
いつの間にか店主を凝視してしまっていたアンは、ついに目を合わせてしまった。慌てて逸らすことも出来ず、数秒間見つめ合う羽目になる。
先に視線を逸らしたのは店主だった。アンは、びくりとして肩を跳ね上げた。気を悪くさせてしまったのではないか、と体温が下がるのを感じる。
しかし、謝りに行くのもおかしな話だ。
しばらく頭を抱えていると、コトンと音が鳴り、テーブルにジョッキが増える。思わず顔を上げれば、そこには相も変わらず表情の無い店主が立っていて、湯気の立つジョッキを手にしていた。
「え……あの……?」
戸惑いを隠せず、しどろもどろに言葉を発すれば、店主は一枚の紙切れを差し出してくる。受け取ると、そこにはこう書かれていた。
『コーヒーです
疲れがとれますよ』
どうやら、気を遣わせてしまったらしい。アンは、また顔を赤くして俯いた。
「あ、ありがとうございます……すみません……」
返答はない。
けれども、店主はアンの前の椅子に静かに腰掛けると、手にしていたジョッキの中身を飲み始めた。この気まぐれな行動に、アンは完全に混乱していた。周りを見ても、誰も二人を気にとめてはいない。
「あの、ど、どうしたんですか……?」
問いかけると、店主はゆっくり瞬きをして、首を傾げた。そして、ポケットから紙切れを取り出すと、何かを書き始める。
『僕にご用かと思いまして』
アンは、これ以上赤くなりようのないはずの自分の体が、それこそ林檎のようになったと錯覚した。
「いえ……その……いや……話はしてみたかったですけど……その……」
突然来られても何を話せばよいのやらわからないのだ、とは流石に口にできなかった。店主が、不思議そうな顔をして見つめてきていることに恥ずかしさを覚え、咳払いをする。
そして、ごく自然に聞こえるようにメモを手にして疑問をぶつけた。
「店主さんは……店主さんも、メモに頼っているんですか?」
言ってから、何が聞きたいのかとアンは自分の頭を殴り飛ばしそうになった。実際やるわけにはいかなかったので、ぐっと堪えて想像の中で完結させる。
店主は、先程の紙切れをつまみ上げて、首を縦に振った。
ほっ、とアンは体から力が抜けるのを感じる。同時に、やはり同種だったのだと喜びを抱いた。
「僕も、メモがないとダメなんです……なんでもすぐ忘れちゃうから、これがないと仕事もできなくて……昔からそうなんです……僕、頭悪いから……親にも、すごく怒られて……なんでも書いておく癖がついて……今では、メモがないと落ち着かないくらいで……書いておけば、忘れないし、失敗もしない……」
アンは、メモを握り締めて語った。店主が口を挟まず、静かに座っているだけなのが、舌の回りを滑らかにしていくようだった。
「僕、失敗するのがすごく怖いんです……失敗は悪いことだ、しちゃいけないことだ……でも、僕は出来が悪くて、失敗ばかりで……だから、同じ失敗だけはせめてしないようにって、メモをするんです……まぁ、書いていても同じこと繰り返しちゃうことはあるんですけど……でも、ないよりは心が安らぐ……」
アンは、一息ついてコーヒーを飲んだ。熱いコーヒーは、体を内側から温めてくれる。店主は、その横でまた何か書いていた。
この人は口がきけないのだろうか、とアンは初めて思った。それに気を向ける、余裕があった。
書き終わり、差し出された紙には、綺麗とは言えない文字が並んでいる。アンは、自分に似ているなと改めて認識した。
『わかります、その気持ち
でも、時には自分を休ませてあげてくださいね』
二度見してしまった。
「これ、どういう……」
言いかけて、また紙がテーブルの一角を覆った。
『何も失敗しない人なんて、いませんよ』
声にするならきっと、呟くようでいて、突き刺さるような音をしていただろう。
慰めようとしているのか、説教をしようとしているのか、文字だけでは分からない。店主の表情を見ると、凪のように穏やかだった。
「昔、そう言ってくれる人がいました……友人だったんですけど……」
アンは、店主と友人を重ねた。似ても似つかない顔、性格だったけれど、影が一つになって見えた。
「お前は怖がりすぎだって……失敗しても、またやり直せばそれでいいんだって……彼だけは、そう言ってくれた……」
アンは、自分の声が震えているのも構わず、鼻を啜って話し続けた。
「でも、彼は戦争で死にました……爆弾で吹き飛んだって聞きました……回収できなかった部分もあるって……」
最後の方は、声になっていたかわからない。店主は、慰めるでもお悔やみを言うでもなく、黙って聞いていた。
「すみません、変な話して……でも、思い出したら、なんだか涙が止まらなくて……本当に、彼だけだったから……僕も、変わらなきゃって思ったんですけど……もう、誰も僕を慰めてはくれないから……強くならなきゃって……でも、難しいですね、変わるのって……」
アンは袖口で涙を拭い、コーヒーを一気に口に流し込んだ。
ふいに、店主が立ち上がってカウンターの奥へと引き込んでいく。アンは、呆然とそれを見送った。
突然泣き始めた自分に嫌気がさしてしまったのかと、今度は店主に対して涙が込み上げてくる。
はたして、店主は数分もせずにまたテーブル席へと舞い戻り、ジョッキをアンの前に置いた。
「これ、なんですか?」
ジョッキと店主を交互に見遣りながら尋ねると、店主は紙切れを渡してくる。
『厄介者のミリオンベル、というお酒です
思い詰めすぎず、気を楽に
経験や時間が味方してくれることもありますよ』
アンは、その言葉の意味を理解できなかった。
ただ、頑張って変われ、とも、ありのままでいい、とも、どちらとも言っていないことだけは汲み取れた気がした。背中を押しはしないけれど、囃し立てもしない、擽ったく頭を撫でられている感覚だった。
「僕、お酒飲むのは初めてです……」
黙りこくって、やっと言えたのはそれだった。店主は、曖昧な表情を浮かべて肩を竦めて見せた。

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