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自分という存在?

心理学の本で、性格は親を含め周りとの関係や遺伝によって形成されると書いてあるのをチラッと見た。赤ちゃんの時に、両親がどう接してくれたかとかが大事らしい。そして、その後も何かと親との関係性によって云々かんぬんとか書いてあった。
それにその本によると、性格を構成する要素の分配は、遺伝が占める割合が三割〜五割らしい。きょうだいの性格がどことなく似るはずだ。(勿論、真逆な場合もあるのは承知として)
人間は社会的な生き物で、周りとの相互作用によって自分を作るのはまぁ、当然と言えば当然か。……けど、なんだか少し思うことは。
誰かに影響されずに自分を作りあげている部分、その実感はどこで得られるのだろう?
例えば、好きな音楽。それを、本当に一から自分で選んで、真っ白な状態から好きになったのか。似たような傾向の歌を親が聞いていて、その系譜を感じるアーティストを好きになったのではないか?その可能性を完全に否定できるだろうか。 あるいは、親が聞いている音楽が苦手で、真反対の音楽を好きになったのではないか? その可能性を否定できるだろうか。
周りへの愛情や嫌悪、それによって自分の好みを寄り分けている。その要素は、自分の中のどこにでも存在していると思う。
だとしたら、自分てなんだ?
粘土みたいなもの?
凹んでみたり曲がってみたりねじれてみたり、環境に合わせて変形させていく感じなのか? ならば、自意識というのは自分では組み立てられないものなのか?
人間ひとりでは生きていけない。それは確かにそう。でも自分を作ることは、自分の中ではできないかもしれないのって、なんだか不思議な感じだ。だって、他人は他人で自分は自分、そんなのは当たり前で。それなのに、それを感じる自分というのは、その他人との兼ね合いで構築されている。
──この性格、この行動、この趣味嗜好は、真っさらな心が導きました。
そんなこと言える人間て、果たして居るのか? 真っさらな心って何だ? 他人に左右されずに在る自己の要素って? そもそも、他人からの影響を受けずに自分を作ることってできるのか? いやでも……
考えれば考えるほど、自分とか個人とか、個性とか、そういうものの曖昧さを感じる。同じ親に育てられても、きょうだいの性格がまるで違うこともあるし、やっぱり根本では何かを自分の力で決めているんだろうけど。
自分を自分で育てる、決める、作る、それって本当はこの世で一番難しいことなのでは?
なんて、こんなことを考えている今のこの思考は、いったい……?

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