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アイデンティティ

アイデンティティが崩れることとは、ある種の人格崩壊といえると思う。
よく、自分探しの旅だとか、自分を見失って迷子になったような……という表現を目や耳にする。僕は、その表現は正しいだろうが、真ん中を射抜いてはいないと感じる。
今まで生きてきて持っていた自分らしさ、というものが否定され崩れるとき、そこにあるのは迷子のような不安感とは違う。
例えるならば、ふと足元を見たとき、腿から先が失われていることに気付くような。あるいは、踏み出したその先が、何もない空間であると唐突に理解したような。
あるのは、行き場のない不安ではなく、支えのない不安だ。
在るはずだったものが、手品の如く目の前から消え去る、最初から無かったと知る。
あるいはそれを、人は成長と名付けたのかもしれない。
成長することに、痛みはいつでも付きまとう。否応無しに、それは影の如く着いて回る。親友でもあるかのように、素知らぬ顔をして。
ところで、こよりというものをご存知だろうか。そう、紙やらティッシュやらを捻って棒状にしたアレ。
つくづく、僕はアレにそっくりだと思う。
弄れて捻れて、度が過ぎて逆転するように素直──これは自己評価ではなく、他者評価なので、自意識過剰と呆れないでいただけると幸いである──になった。
そのくせ、本質はやはり弄れている。弄れているからこそ、僕は素直に見えるようになった。
その矛盾というか、ある意味合理的な性格構成が、ぐるぐると僕の内面を侵食している。
独りが好きだったり、変化が嫌いだったり、寂しがりだったり、人といると疲れたり。ジェットコースターのように落ち着きのない性質が、アイデンティティをいとも簡単に突き崩してしまう。それが嫌で虚勢を張れば、さらにこよりは捻れて弱くなっていく。
簡単に切れてしまいそうで、落ち着けない。
いつか、足を失くしたことに、踏み出した先が何もないことに、穏やかな諦めを持てる日が来るだろうか。それならそれで、そう生きていく方法があると、割り切れる日が。
人格が崩れ落ちた後に、僕の中に残るものはいったいなんだろうか。

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