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別れの港

──あの子の言ってた酒場って、ここかしら。
クミは、寂れた外観を半ば睨むようにしながら心の中で呟いた。野犬が鳴くのを耳にとめたが、無視をして扉に手をかける。
中は、外観と同じく寂れた様相で、木の机が幾つかとカウンター席があるだけだった。
夕方の時間だからか、仕事終わりらしい男たちが客の大半を占めている。女もいたが、どうにも飲むことが目的ではなさそうに感じられた。
クミは、眉を寄せて視線を動かした。
ガタイのいい男が、客に話しかけては酒の名前をカウンターの奥に放っている。
そのカウンターの奥では、物静かそうな痩躯の男がいそいそと酒の準備をしていた。あの男が、この店の店主なのだろうか。
クミは、店の端にある席に静かに腰かけた。酒のことなどわからないが、とにかく前後不覚になるほどに酔ってしまいたい気分だった。
手を上げて、ガタイのいい男を呼びつける。男は、快活な笑顔でクミに近寄った。
「いらっしゃい。あ、初めましてですね、お越しいただきありがとうございます。ご注文承ります」
見た目に似合う低い声だ。クミは、考える素振りすら見せずに男を見上げた。
「私、お酒を飲むの初めてなの。オススメのお酒をちょうだい。そうね……五杯くらい一気に持ってきてくれると嬉しいわ」
後半はほとんど冗談というか、自暴自棄になって言った言葉だったが、男は気を悪くした様子もない。それどころか、慣れていると言わんばかりにカウンターの奥の男にクミの言うままを伝えた。
痩躯の男は、黙って頷くだけだった。
「少々お時間いただくとは思いますが、お待ちください」
クミに向き直ったガタイのいい男は、頭を下げて去っていく。
待ち時間を潰すため、クミは物思いに耽りながら店内の客を観察した。
海の匂いのする、小麦色の肌の男がいる。彼は何を抱えて生きているのだろうか。妻がいるらしい。そしてきっと、あまり彼女のことを理解できていない。彼の愚痴の内容はいかにも男らしく、女心を棚の上へ上げているようなものだった。
──そりゃそんなことされたら奥さんだって怒るわ。
クミは蔑むように鼻をすんと鳴らした。男というのは、誰も彼も女を人間と思っているのか怪しいものだ。
苛立ち、今度は女の客に目を向けることにした。
派手な服を着て連れの男の腕に絡みついている、売春婦と思しき女がいる。彼女は何を思ってその仕事を選んだのだろう。クミ自身、体を売ることを考えたこともあったが、イメージするのと実際に行うのとは天と地ほど差がある。
見知らぬ男に身を委ねるというのは、彼女の中でどのような意味を持つのか、クミには想像もつかなかった。けれども、彼女の表情や仕草を見るに、連れの男に強い感情を抱いているのは理解できた。目を離さず、まるで恋人を見るかのように熱く男を見つめている。
──馬鹿な女、金に任せて遊ばれてるだけなのに。
クミは、客に対して夢を抱く売春婦を、藁をまとめて作った人形のようだと思った。そこそこの見た目をしているくせに、頭の弱いつまらない女だ、と見下していた。
次の客も、その次の客も、同じように冷たく観察していた。
そんな風にして時間を過ごしていると、酒の入ったジョッキがクミの前にある机に勢いよく置かれた。その音に少なからず驚くと、あのガタイのいい男が申し訳なさそうにしている。
「すみません、驚かせてしまって」
「……いいえ。これ、なんて言うお酒なの?」
「……さぁ、キヨの特性ですよ。名前は彼奴がてきとうに付けてます」
男は、肩を竦めて言った。
「……キヨって、あの人? 店主さん?」
クミがカウンターの奥にいる男を示しながら聞くと、男は頷いた。口振りからして、関係は長く続いていそうだ。
二人の見た目のアンバランスさは、小説のように妙にしっくりとくる。まるで優等生とガキ大将、あるいは坊ちゃんと護衛といったところか。どのように出会ったのかが気になる。
「では、ごゆっくり」
男がお辞儀をして去っていく。
クミは、目の前に置かれた大量の酒に気を向けざるを得なくなった。黒髪を肩甲骨まで垂らし、飾り気のない無地の服を身に付けた女が、酒をしこたま目の前に置いている光景は他の客の気を引いていたが、クミは目もくれなかった。ゆっくりと、初めての酒を舌に乗せて味わう。
甘みのあるそれは、飲みやすくするすると喉を通った。頭がほわりと酒に浸っていく。初めての感覚に、クミは満足して手を動かした。
黙々と、何を考えるでもなく酒を胃の中へ流し込んでいく作業は、クミを人間にしていくようだった。
考え事も時間も忘れ、没頭する。
ふと我に返った時、既に酒はなくなっており、クミはまだ飲み足りないと感じていた。周りの客は一層増えており、夜の始まりを告げている。
クミは、多少よろける足でカウンター席へ移動した。突然カウンターを陣取ったクミに、店主は眉を寄せたが、気にせずに手を動かし続けている。
──この男は、いったい何を思ってこの店をやってるのかしらね。
クミは、品定めするように店主を観察した。表情もなく、淡々と働く姿はこの仕事を楽しんでいるようには見えない。かといって、嫌々やっているとも感じられない。
客が目の前に来たというのに注文を取ろうともしない閉じたままの口と、店主の心は似たようなものに思えた。
「……お酒をいただける? 飲みやすいものを」
クミは、思い切ってそう言った。
あのガタイのいい男も、忙しくしてクミに手を焼く暇がないらしかったからだった。
クミの言葉に、店主は何やら準備を始める。返事すらしようとしない姿勢に、クミは逆に清々しい気持ちになって少しだけ笑った。
──お堅い男なのね。
心の中で呟いて、店主が酒を用意するのを待つ。先程より短い時間、先程より浮ついた時間だった。
コトン、と極力の音を消して置かれたジョッキに、クミは期待する。香りを嗅いでも味の検討もつかないが、美味しいだろうと確信があった。
両手でジョッキを持ち上げて口をつける。抑えられた甘みの、やや酸い味だった。
「……美味しい」
独りごち、クミは店主を伺った。
聞こえているのかいないのか、店主は黙々と洗い場に溜まったジョッキを洗うことに勤しんでいる。
客に興味が無いのか、クミに興味が無いのか、クミには捉えられずにいた。ゆっくりと酒を飲み干し、悪戯心と共に口火を切った。
「……ねぇ店主さん、お酒にてきとうな名前をつけてるって本当?」
窺うようなクミの質問に、店主は手を止める。そして、一瞬あのガタイのいい男に視線をやった。それから、クミに視線を移す。
店主の目は、波の立たない黒い海のような、鏡のような色をしていた。
「そう、あの人が言ってたの。お酒の名前はキヨが……キヨさんて呼んでもいいかしら……てきとうにつけてるって。私、お酒には詳しくないから、気になったのよね。あのお酒、どんな名前なのかなって」
カウンターに頬杖をつき、上目遣いにキヨに問いかければ、少し顔を赤くして目を逸らした。うぶな男らしい。
キヨは、服で水を切ると近くに置いていた紙をちぎった。そして、ペンを取ると目を伏せてなにやら書き出す。
なにかしら、と思っているとそっと紙が差し出された。クミは反射的にそれを受け取り、読み始める。といっても、単語が書いてあるだけだった。
「……傷んだコスモス?」
意外な名前だった。
「じゃあ、今飲んだのはどんな名前なの?」
好奇心に任せて、クミは身を乗り出した。キヨは、先程と同じように紙に書きつける。
紙には、こう書かれていた。
『乙女のエルム』
「ねぇ、これどういう意味なの?」
クミは、なんだか面白い気持ちになって尋ねた。キヨは、前のめりになるクミに些か驚きながらもまた文字を起こし始めていた。
しばらく待っていると、キヨはまたそっと紙をカウンターに置いた。
『コスモスは、乙女心
エルムは、感受性』
どうやら花言葉らしい。枕詞と繋げて考えてみるならば、傷んだ乙女心と乙女の感受性。まるで見透かしたような名前の酒だ、とクミは表情を浮かべることも忘れて紙切れの文字をなぞった。
「なんで、このお酒を私に?」
また、かりかりと文字を書く音が机に染み込んでいく。
『美味しいですから』
端的に書かれた言葉に、クミは呆然とした。顔を見て落ち込んでいるとわかったとか、今の貴女にお似合いの酒だと思ったとか、そんなことを言われる──この場合は書く、だが──と思っていたから、拍子抜けだった。
「変な人ね。あーあ、ロマンティックな言葉を期待してたのに」
クミが髪をいじりながら言うと、キヨはぎこちなく曖昧な笑顔を浮かべる。その表情に小さくため息をつくと、空になったジョッキを人差し指で弾いた。
なんだか、空回りしている。
「……私ね、近くの教会でシスターをやってたの」
口をついて出たそれに、クミ自身が驚いていた。
──初めて会ったこの人に、身の上話を聞かせようとしてる?
馬鹿げていると思いながらも酔った頭は、待ったをかける冷静な思考に反して口を動かしてしまっていた。
「教会って、本当に色んな人が来るのよ。このお店にみたいに。優しそうな人も、怖そうな人も、利口な人も馬鹿な人も、数え切れないくらい来るの。そしてね、みんな神様に縋ったわ。お助けください、道をお示しくださいって。それだけならまだいいのよ。でもね、あの人たちって、私たちシスターのことも神聖視してるのよね。私たちも全能の力を持ってると思ってる。崇めるみたいに話をするのよ。私たちはそれを聞くだけ。毎日毎日、飽きるほど聞いたわ。愚痴も、惚気も、困り事も嬉しい事も……」
クミは、そこで言葉を切った。
酒が回って眠たくなってきたこともあったし、何よりこの先をどう締めくくるかあまり考えていなかった。こんなことを話して、何を伝えたいというのかも。
「……やぁね、私ったら。ノンちゃんに聞いたから来たのよ、この店に。無口な店主さんが、よくしてくれるって言ってたの。だから……」
遮るように、一枚の紙切れがクミの前に差し出された。目を瞬かせて紙切れを受け取り、書いてあるものを読んで、肩の力が抜ける。
『人の話を聞くだけじゃ、疲れるでしょう』
下手な文字だったが、柔らかい。
まるで、溜め込んだものをここに吐き出していけと言っているようだった。それはクミの希望的観測かもしれないが、キヨはそれを許す気がした。
「もう一杯いただける? お酒以外の方がいいわね、すっかり酔っちゃったから。……あ、でもここは酒場だし、そんなのないかしら?」
キヨは、首を振った。
クミの前にある空のジョッキを取り上げると、背を向けてまた何かの準備を始める。しばらくして出てきたのは、コーヒーだった。
「あら、こんなものまであるのね。酒場なのに」
揶揄うように言うと、キヨは眉を上げた。
おかしいですか、とでも言いたげな様子にクミはくすくす笑ってコーヒーを一口啜る。濃いブラックコーヒーは、目を覚まさせてくれた。
「ふふ、話の続きだけど……辞めちゃったの、シスターを。ずーっと人の話を聞いて優しい言葉をかけて、疲れたのよ。本当はそんなに人に興味があるわけじゃないの。聞くよりも話す方が好きだしね。ただ、彼処しか居場所がなかったから縋り付いてたのよね。やりたいことじゃない、って思いながら仕事をしてたら、どんどんひねくれちゃって。いつしか、自分以外の人間を見下すようになってた。それではっとしたわ。このままじゃ私、ダメになるって。だから出てきちゃった。……身勝手なものよね、誰かに話をしたいだけ、なんだもの。……今までも、何度か出ようとは考えてたのよ、そんな自分に嫌気がさしてね。でも、結局勇気がなくて、出ていく妄想で完結してた。シスターを辞めたって、仕事があるかもわからないしね」
軽く紡がれるクミの物語を、キヨは黙って聞いていた。良いも悪いも、何も言わずに、ただ静かに。
「私、夢があったの。お話を書いて、みんなに読み聞かせるのよ。教会に来てた人が応援してくれることになったの。初めて私の話を聞いてくれた人。その人のおかげで、夢を追う決心をしたの。だから、この町とも今日でさようならなわけ」
一息に言い切って、クミはコーヒーを半分ほど飲んだ。
話し終えて、すっきりした気分だった。神聖な儀式を済ませた後の疲労感にも似ていた。
残りの半分を飲もうとカップに口をつけて、ふと思い立ち、カップを置く。黙ったままのキヨに、クミは思い浮かんだ疑問をぶつけた。
「……ねぇ、貴方って声を出さないの? それとも、出せないの?」
クミ自身、不躾かと思う質問だった。キヨは慣れているのか、手早く紙にペンを走らせた。
『どちらもです』
簡潔な一言だったが、心が籠っていないとは感じなかった。寧ろ、キヨの全てではないかとクミは思った。
「そう。ごめんなさいね、変なこと聞いて。もっと早くにこの店に来るべきだったわ……貴方のお酒もコーヒーも、もっと飲みたかった」
それは、紛れもない本心だった。
騒がしい酒場の中で、この物言わぬ店主に話をして過ごすのも面白かったかもしれない。コーヒーを飲み終えて席を立とうとした時、キヨがクミの肩を軽く叩いた。その掌にある紙の文字に、クミは目を見開いた。
『この店は変わらずここに
ご来店された時は今と同じ味をお約束します』
慌てて書き殴ったような文字。
クミは目頭が熱くなるのを感じて、咄嗟に笑顔をつくった。
「港みたいな人ね。そうね、いつかまた、きっと飲みに来るわ」
きちんと声になっていたかはわからない。
クミは、代金をカウンターに置いて深く頭を下げた。頭を上げた時、相も変わらず不器用に表情を貼り付けているキヨに笑い、踵を返した。
「またのお越しを」
扉を抜ける寸前、ガタイのいいあの男の声が背を追いかけてきて、クミはついに涙を零した。
故郷というものを心に刻む涙だった。

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