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夢の途中の小説家

ナヤは、客の居なくなった酒場でいつまでも酒を飲み続けていた。
店主である痩躯の男は、何も言わずにカウンターの向こうに佇んでいる。
やたらと気持ちのいい飲み方をする客の一人が勝手に教えを授けてくれたが、店主の名前はキヨというらしい。一度も口を開いたことはなく、共に働くガタイのいい男、キクが代わりに喋っているのだそうだ。
黙々と片付けをするキヨを盗み見ながら、ナヤは小さくため息をついた。物言わぬ酒場の店主とは、いかにも小説に出てきそうな良い性質ではあるのだ。
けれども、話をしようにも相手に声がなければインタビューもできやしない。
行き詰まった仕事に、今度は大きなため息が零れた。
夢を追ってこんな町まで出てきて、ボロアパートに暮らしているというのに、なかなかどうして上手くいかないものだ。学生時代、なんとなしに書いていた短編小説はかなりの出来栄えで、友人たちには手放しで褒められたのだが。
いざそれで食っていこうと思うと、簡単にはいかない。出版社に持ち込んだ力作は、物足りないと言われて突っ返されてしまった。
家賃を稼ぐことすら、小説では困難なことだった。細々とした文字の仕事を請け負ってなんとか生きている始末だ。
だからこうして、ヤケ酒を煽りながら小説について考えめぐらせて──逃避とも言うが──いるわけである。
酒の回った頭では、ろくろく案など出てきやしないが。
「夢なんぞ、追うもんじゃねぇな……」
一口だけ残った酒を、まるで一気飲みでもするかのように大胆に喉に流し入れ、呟いた。キヨが微かに感情を宿した眼差しを向けてくるのを感じ、ナヤはジョッキを置いた。
「店主さん、アンタ、夢はあったか?」
答えなど期待していない。
ただ、誰かに自分の声を聞いて欲しかっただけだ。案の定というべきか、キヨは口を閉じたままじっとナヤを見つめるだけだった。
酔いの混じった諦めに口角を上げ、もう一杯と言った。
キヨは、静かに準備を始める。
よそよそしい態度に多少がっかりしつつも、ナヤは気を取り直して自己開示をすることにした。物言わぬ店主が何かしら親近感を感じて、口を開いてくれるかもしれないという打算もあった。そうすれば、この男から小説の勘をもらえるかもしれない。
他力本願の時点で先は見えたな、と自嘲したが、今更引き返すつもりは毛頭なかった。
「俺はさ、ガキの頃から小説家になりたかったんだ。頭の中には沢山の世界があって、それを形にするのが楽しかった。それくらいしか、遊びもなかったしな」
話し相手は、案山子のように反応を見せない。いや、もしかしたらそう努めているだけかもしれない。ナヤは、酒を用意するキヨから目を離さなかった。
「でもまぁ、大戦のせいで夢はおじゃんだよな。人が死ぬのと同じように、俺の夢も死んだ」
ナヤの中に、当時の空虚が蘇る。
戦争に駆り出され、目に焼き付いたおぞましい光景がありありと思い出された。吹き飛んだ仲間、胸に穴の空いた敵、どれもこれも死んでしまえば一様に大きな肉の塊だった。これには意味があるのか、と死体を見る度に自問した。
国同士、人同士、殺し合うことになんの意味があるのか。争いの先に、待ち受けているのは果たして本当に平和なのか──
記憶が戦場へとナヤを引き戻す。危うくそれに足を取られそうになって、首を振った。今思い出したいのは、血の記憶ではない。
テープを進めるように記憶を早送りにすると、帰郷した場面で止まった。戦勝の兵士として、ナヤは近隣の人間から賞賛された。
戦前が入り込んできた。
キヨは、ナヤに目を向けず酒を用意している。
「……と、思ってたんだけどな。大戦はあっという間に集結した……俺は途方に暮れたね。夢を捨てて戦場に出たってのに、祖国にまた放り出されて」
ナヤは肩を竦めた。
「人を殺した手で、小説が書けるのかって悩んだよ。仕方なかったとはいえ、何人もの人間を殺した俺が、人間を書くなんてできるのかって」
存外、自分の声がふわついておらず穏やかさを持っていることに、ここで初めて気が付いた。
同時に、凛とした女性を思い出す。彼女は、ナヤの姉だった。心を病んだ両親に代わり、ナヤを包み込んでくれた、勝気な女性だった。
ナヤは、ゆっくりとカウンターに置かれた酒に礼を言い、半分ほど飲んだ。息を整え、また話し始める。
キヨは、酔っ払いの身の上話に嫌な顔はしていなかった。
「それで、燻ってたんだ。てきとうな所へ就職して、なんとなく働いてた。でも、姉貴に喝を入れられたよ。夢はどうしたって。俺も、カチンときてな。人を殺した俺が、どうして人を書けるんだって、喚き散らした。大人げないったらないよな」
ナヤとしては笑ってほしかったのだが、キヨは少し眉を下げただけで、笑ってはくれなかった。どういう感情で聞いているのか、とふと疑問が湧く。
しかし、最後まで話をしてしまおうと咳払いした。
「姉貴の奴、俺にゲンコツかまして泣いてたよ。人を殺したからこそ、今度は人を生かしなさいって。貴方の世界で、殺した分だけの命を生みなさいって」
懐かしむように笑うと、キヨは少しだけ目を細めて口角を上げたように見えた。まるで、過去を思い返しているような、そんな表情だった。
「それで、俺は小説家をまた目指すことにした。姉貴に言われたからだ。でも、俺の長年の夢でもあったからだ。死んだと思ってた夢が、墓から起き上がって、やぁなんて手を振るもんだから、駆け寄っちまったのさ」
夜、子どもに読み聞かせを終えた父の気分だった。もっとも、目の前で黙りこくったままの相手は子どもでもなければ、健やかな寝顔を見せてくれるわけでもないが。
ナヤは、苦笑いを浮かべた。
残り半分を飲み干し、この後どうするべきかわからなかった。話をして幾分すっきりしたが、キヨの声を引き出すには至っていない。小説の案も、てんで湧いてきていない。
髪を掻いていると、キヨが紙をちぎって何かを書き出した。
何事かと見ていると、カウンターにそっとそれを置かれる。掬うように持ち上げてみると、短い言葉が綴られていた。
『サザンクロス、そのお酒の名前です』
これには、さしものナヤも困惑してしまった。あれだけ長々と身の上話を聞かされた男の返答が、酒の名前とは。
口を開けていると、続いてまた紙が差し出された。
『いつか、本屋で名前を見ることを願って』
その下手な文字に、吐息のような笑いが漏れた。この店主は、いったい何を考えているのだろうか。
「はは、夢を追うのも楽じゃないよ。今も、何も書けずにいるんだからな……なぁ、アンタは酒場の店主が夢だったのか?」
キヨは、首を横に振った。
「ほぉ、じゃあ何になりたかった?」
さながら新聞記者の気持ちで、ナヤは身を乗り出して問いかけた。キヨは、困ったように眉を寄せると、また紙に何か書き付けた。
『夢の中の旅人に』
予想外だった。
そんな、ロマンティックともとれることを考えているとは思わなかった。しかも、キヨは至極真面目な顔をしている。
ナヤはごちゃごちゃとした文字を眺めて、にやりと笑った。
「面白い人だな、アンタ。遅くまで居座って悪かった。もう帰るよ」
突然立ち上がったナヤに、キヨは些か驚いたように眉を上げたが、すぐに静かな表情に戻って頷いた。
「すぐに本屋で俺の名を見ることになるはずだ。探してみてくれ、ナヤって作者を」
ナヤは、早口に言うと覚束無い足取りでさっさと酒場の出口へ歩き出した。
頭に浮かんだ世界、人間を、一刻も早く書き出さなくてはと、沸騰した感覚を覚えていた。

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