2次創作で腐女子になってしまうのはなぜか
我々は常に原作への罪悪感と己の欲望の間で葛藤しています。
例えば、ある漫画にAという男性キャラクターがいたとします。我々が「Aの原作よりももっとカッコいい男らしい所が見たい」と思った時、その相手を誰と仮定して妄想に励むか、悩みます。
相手を自分とするのが最も満たされ、原作への罪悪感が薄いと感じるのが夢女子です。
相手を同性のキャラクターとするのが腐女子です。
腐女子にとって、なぜ同性のキャラクターを相手とするのが最も心地よいか。それは、異性のキャラクターを相手に据えると、原作を改変しているという罪の意識に苛まれるからです。
作中で公式に結ばれるのはたいてい異性同士のカップルです。となれば、相手が判明していない段階でAへの萌えを募らせた場合、こちらで勝手に違う異性とくっ付けるのは、原作に介入し捻じ曲げているかのような違和感を覚えます。最も原作に近い状態(異性同士でくっ付ける)でありながら、確実に原作ではやらないような妄想をする(過激なテーマ、濡れ場など)ため、「自分はこの漫画のキャラクターたちを使い、勝手な妄想をしている」という罪の意識がより強く印象に残ります。
反対に、相手が同性であればどうでしょう。
性の多様性が認められ始めた現代でも、やはりこと恋愛以外をメインテーマとした多数の作品の中で、同性同士のカップルが自然に結ばれる事例は極めて稀です。少年マンガではほぼ確実にありえないと言ってよいでしょう。
さて、私たちはAと同性のキャラクターが公式で結ばれることは絶対に有り得ないと無意識に知っています。ですから、勝手にAと同性Bをくっつけることは、原作とは完全に異なる世界線を独自に生み出しているという感覚に近くなり、「原作のようで原作でない」という、二次創作において致命的となる"違和感"をなくすことができるのです。結ばれるはずの異性Cとのアレコレを想像すると、あまりに現実的すぎて、過激な妄想は理性が抑え込んでしまいます。
しかし同性Bとカップルになる世界は、現実的には絶対に有り得ないからこそ、理性にも他人にも侵害されることなく、自分だけの理想の真実を都合よく妄想することができます。AとBのカップルは原作に決して描かれないため、真ではないが、永遠に偽にもなりません。我々にとって絶対的存在である作者に「偽でない」とされることは(作者が言及していなくとも、原作で明確な否定の描写がない場合を含む)、常に罪悪感を抱える2次創作愛好家にとって最も大きな「赦し」となります。
カッコよくプロポーズするAも、余裕が無くて嫉妬深いAも、B相手であれば"偽"ではありません。我々は原作、他人、理性に否定されることなく、好きなようにAというキャラクターを楽しむことができるようになります。
これが、腐女子が好きな男性キャラクターの相手として同性である男性キャラクターを据えてしまう、大きな理由だと考えます。