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小林秀雄論ー序説、何故賢いのかー

小林秀雄論ー序説、何故賢いのかー

批評家、小林秀雄を、批評する、という事は一体どういうことになるだろうか。そんなことは、書いてみなければ、分かるまい。誰だってそうである、小説家という意匠を批評するのと同じく、批評家という意匠を批評するのだ。言ってしまえば、事は足りるが、その結果を得るまでには、長い長い道のりが、標的に目指して、地続きで繋がっている。この直線を、一歩も間違えることなく書いていくのが、小林秀雄論となるだろう。

小林秀雄の、日本文壇における位置は、芥川の後継者、だと見て良いだろう。昭和四年四月、『改造』の第二席に、『様々なる意匠』でこの世に出た小林秀雄だが、その時の第一席は、宮本顕治の芥川龍之介論、『敗北の文学』であった。当然、芥川のことを言ったのは宮本顕治だが、『敗北の文学』とすれば、文学は終焉を迎えることになる。その点、小林秀雄の『様々なる意匠』は新しい。芥川龍之介の方法論である、意匠を借りて小説にするという行為を、最も的確に批評したのは、小林秀雄の『様々なる意匠』である。この、意匠というものを見る、眼、という発見は、日本文学史上、最大の発見の一つだったのだ。以降、現在に至るまで、小林秀雄の名は、優々と残っている。芥川から、時代を引き継いだのは、新しい発想による小林秀雄だった、と見て良いだろう。だから、賢いのである。

ただ、この小林秀雄の批評する眼、というもの。これは一種の宗教であり、また、一種のペテンでもある。例えば、坂口安吾は、小林秀雄論で、『教祖の文学』というのを書いている。それもそのはず、小説家にとっては、誰がどんな内容の小説を書いても、それがどれだけ新しく斬新なものだったとしても、一言で終わるのだ、様々なる意匠、と言われてしまえば。言葉も発想も物語も、その執筆契機や執筆方法論まで、全ては、様々なる意匠、で片付いてしまう。日本文学において、小林秀雄は賢い、寧ろ、賢すぎたのだ。何という事を言ってしまったのだ、という状況下、今度は、批評家の系譜が出て来る。福田恒存、吉本隆明、柄谷行人。しかし、小林秀雄は、「徒然草」の兼好や、国学者の本居宣長に、物を見る、眼、があったとする。そうなってくると、批評家の系譜をどう捉えれば適切か、という話になるが、これは自覚の問題ではないだろうか。兼好も宣長も、物を見る、眼、が自己に備わっているという自覚はなかったのではなかろうか。つまり、そういう、眼、を自覚したのが、小林秀雄だった、という訳なのだ、と言えそうである。

これから、小林秀雄論を書いていくつもりだが、序章として、小林秀雄論ー序説、何故賢いのかー、を書いてみた。本論後の、小林秀雄論は、評論と人生を照らし合わせて、書いて行くつもりである。どれくらいの本数になるかどうかは、まだ定かではない。

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