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小林秀雄論ーXへの手紙、雑考ー

小林秀雄論ーXへの手紙、雑考ー

小林秀雄の『Xへの手紙』は、一見難解に見えるが、一回性というものを知ったら、誰もが通る道だと思われる。夢をみていた者が、夢をなくした状態、とでも言えば適切だろうか。しかし、この状態こそが、夢の具現化だと、誰もが思わないのは不思議だ。

例えば、この様な箇所がある。

人間を支える一番大事な二つのもの、過去というものと虚栄というものと、この二つながらもはや俺には判然とした意味を失って了ったらしい様子である。

『Xへの手紙』/小林秀雄

こう言う状態を、価値の転化と見るには難しい。失ったということは、転化後しか存在しないということだ。つまり、今、というものしかないということだ。自分は過去というものを憶えてはいるが、小林秀雄のこの状態は、過去を失ったと言って居る。分からないでもない。しかし、それには何かの起点があったはずだ。それを、読み手、X、に対して、手紙として述べているということになる。この『Xへの手紙』は、どうやらこういった状況に陥った人間しか、同じ感覚を理解し得ないのでは原ないか。或る意味、小林秀雄は、芥川龍之介の恐れた発狂を、実際に発狂して原体験したのではなかろうか。依然として、『Xへの手紙』は、良く分からないものとして、文章になっている。

続いて、この箇所。

たとえ社会が俺という人間を少しも必要としなくっても、俺の精神はやっぱり様々な苦痛が訪れる場所だ、まさしく外部から訪れる場所だ。

『Xへの手紙』/小林秀雄

今度は、精神の問題になってくる。「たとえ社会が俺という人間を少しも必要としなくっても」、これは名文ではある。しかし、社会そのものが、人間というものを必要とするかは、非常に疑わしい。何なら、社会への帰属意識を自ら捨て去れば良い、とも思う。ただ、小林秀雄にとっての、この述懐は、小林秀雄にとっては、重要な真実らしい。そういう真実だと言われたら、頷くしかない。もっと他の生き方があるとはいえない、読者は小林秀雄ではないからである。しかし、前述してきているような、状況下に陥った人ならば、小林秀雄に共感し、救いになるだろう、『Xへの手紙』、である。

こういった、小林秀雄に病名を付けるとすれば、何が適切だろうか。何れ自分も通る道だと仮定して名付けるならば、言語的社会倒錯体験病、とでも言えば適切かもしれない。しかし、病ではあっても、これは、個人が一つの神の座を得るための、通過儀礼であろう。夢と現実の反転した、小林秀雄の世界には、もう批評しか残されて居なかったのではないか。そう思う時、小林秀雄の、物を見る、眼、が開眼したのだと、了解しよう。


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