アニメーションという魔法(イリュージョン) 『イリュージョニスト』

※『ビランジ』28号(2011年9月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は当時のものです。

 1997年のアヌシー・アニメーション・フェスティバルで短編部門グランプリを受賞し、翌年の広島国際アニメーション・フェスティバルでもグランプリを得た『老婦人とハト』のブラック・ユーモアで我々を大いに喚起し、2002年の初長編『ベルヴィル・ランデブー』のパワフルでユーモラスで物悲しい大人のアニメーションでまたも我々を大いに魅了したフランスのシルヴァン・ショメ監督の新作長編アニメーション、それが『イリュージョニスト』だ。
 この作品は『ぼくの伯父さん』等で知られる映画監督で俳優のジャック・タチが愛娘に遺したシナリオ「FILM TATI No.4」を元にしている。タチの娘ソフィアは同じフランスのショメ監督に全幅の信頼を寄せ、半世紀に渡り眠っていたそのシナリオを託したという。かつて詩人ジャック・プレヴェールがシナリオを書き、アヌーク・エーメやピエール・ブラッスールといった名優が声を演じた美しく深みある長編『やぶにらみの暴君』(ポール・グリモー監督、後に『王と鳥』に改作)をはじめとする大人のためのアニメーションの伝統と歴史を持つフランスならではのエピソードと言えるかも知れない。
 『イリュージョニスト』の主人公の名はタチシェフ。ジャック・タチの本名であるという。その体型や表情、仕草もタチその人である。ここにアニメーションならではの魔法(イリュージョン)がある。既に世を去ったタチをアニメーションのキャラクターとして甦らせ、タチ自身のシナリオの中で、彼には実行不可能だった手品師(イリュージョニスト)の役を演じさせる。タチは手の怪我などもあり不器用で、試みてはみたものの手品をするには向いていなかったそうだ。
 そしてアニメーションの魔法はもう1つ。手品師や道化師たち大衆芸人がそろそろ時代遅れになりつつも観客の前で舞台を務めていた50年代のミュージックホールという時と場所の再現。初老の手品師タチシェフはパリの場末の舞台に現われる。その舞台の設え、観客席の様子、舞台裏での仲間の芸人たちや興行主との遣り取り。その場の空気まで伝わって来そうなほど、時に辛辣に、底に彼らと失われ行く時代への愛と共感を持ってそれらは描かれる。
 世間ではロックンロールやテレビが台頭し、昔ながらの芸人たちは生業の場を失いつつあった。タチシェフもまた同様。自前のポスター1枚を持ち、手品のタネであるウサギを1匹連れたドサ回りの旅の中で彼はスコットランドの離島を訪れる。外界の文明と切り離され、やっと電気が開通したばかりの離島のバーで村人を相手に披露した手品で久々の喝采を浴びるタチシェフ。彼は宿屋で下働きをする孤独な少女アリスに手品で赤い靴をプレゼントする。その姿はアリスにとってさながら魔法使いに見えた。やがて島を離れる彼の後を追って同じ船に乗り込むアリス。そんなアリスに生き別れの娘の面影を見たタチシェフは彼女と共にエジンバラの片隅で暮らし始める。ベッドを彼女に与え、自分は長身をソファに折り曲げて眠りながら。
 この、アリスの出自が文明の進歩と隔絶した離島であり、彼女はスコットランド・ゲール語しか話せず、フランス人のタチシェフは他には片言の英語しか話せないために、ほとんど身振り手振りでしか互いの意思疎通が成立しないという設定が利いている。初めて見る手品師を魔法使いと信じてしまうアリスの純朴さは観客を説得するに足るし、タチシェフのパントマイムもまた味わえるのだ。そして肝心な、彼は本物の魔法使いではないという事実は彼女には伝わり得ない。手品は彼の生業であるからだ。
 大都会エジンバラのショーウィンドウにはアリスの目を奪う様々な最新流行のファッションがあふれていた。自分を何でも夢を叶えてくれる魔法使いと信じる彼女のために安舞台に立ち、時には洗車のアルバイトをしながら日銭を稼ぎ、ハイヒールやドレスを贈り続けるタチシェフ。この洗車の場面が傑作だ。一篇の短編喜劇のように無言のまま大きな高級車に悪戦苦闘するタチシェフの可笑しさ。ジャック・タチのファンならば快哉を上げること必至だろう。
 ショメ監督は持ち前のシニカルなブラック・ユーモアを丁寧に漉して洗練された大人の笑いを作り上げた。例えばアリスの作ったシチューの件り。タチシェフは部屋で姿の見えないウサギを探している。ふと台所のシチュー鍋と、テーブルの上のレシピを見比べてギクリという一瞬の呼吸の見事さ。無言の食事中、部屋の隅からウサギがピョコンと跳ね出すさり気なさもいい。ここでも2人の言葉が通じないディスコミュニケーションの設定が利いている。
 タチシェフの努力も空しく財布が底をつきかけた頃、いつしか成長したアリスは青年に恋をする。タチシェフのプレゼントした青い流行のドレスを着て青年とデートするアリス。巣立ちの時を悟ったタチシェフは彼女を置いてエジンバラを去る決意をする。長年苦楽を共にしたウサギを野に放ち、1人列車に揺られて。アリスの元に残された手紙には一言「魔法使いは実在しない」と書かれていた。
 映画の後口はビターだ。遠く過ぎ行く50年代への愛惜。タチシェフとその芸人仲間たちが大衆に愛され支持されていたミュージックホールの時代の終焉。献身的に尽くし守りながら手許から羽ばたく日を受け入れざるを得ない父と娘の関係。愛娘に遺されたシナリオにはジャック・タチの、あるいは普遍的な父親という存在が永遠に己が娘に捧げ続ける無償の愛が刻まれている。実の父娘なら生涯縁は切れないが、擬似父娘であるタチシェフとアリスの関係は彼らの旅立ちと共に失われてしまう。そんな人生の無常と人の世の苦さが、移り行く景色と時間に包まれて描かれる妙。
 アニメーションは夢の魔法だ。しかしそこにも確実にデジタルという時代の波が押し寄せている。波に呑まれて消える技術。更に磨かれ洗練される技術。その狭間にこのような傑作が生まれる。この作品の背景画は手描きの線にデジタルで彩色し、光の効果等を加えて出来上がったという。よく見ると樹や山々にはペン画のような輪郭線が見える。そしてそれが一種独特な個性を持ったショメ監督の描く人物と呼応し溶け合って、渋く滋味のある世界そのものを作っている。エジンバラに滞在経験のある人は景観のみならずその場所の空気や光までが画面の中に見事に再現されていることに驚くという。そうした経験のない者にとっても、この一種のロードムービーである作品の移り行く景色と時間、季節の移ろいはまざまざと胸迫るものがある。風景の中に情感を溶け込ませること。それもまたアニメーションの魔法だ。日本でも特定の地域や時代をモデルにしたアニメ作りが近年とみに盛んだ。特にセットを組む必要はなく、天候も季節も風景も意のままに作り出すことが出来、優れたセンスさえあればそこに特定の意味や情感を付与出来る、これはアニメーションの大きな利点だ。『イリュージョニスト』は作品そのものがアニメーションという魔法によって完成されたイリュージョンなのである。そしてイリュージョニストとは主人公タチシェフだけでなく、その時代まるごとジャック・タチその人を再生し現出させ得たシルヴァン・ショメ監督自身の謂ではあるまいか。
 ショメ監督の作品は短編『老婦人とハト』も前作の長編『ベルヴィル・ランデブー』もアクの強さが持ち味だった。そこへ、監督の敬愛するジャック・タチという要素を加えたことでアクは洗練された大人の味わいへと姿を変えた。ところどころに残るショメ監督らしいアクやブラック・ユーモアはアクセントとなって全体を引き締める役に回っている。
 そして人物造型の巧みさ。実在のジャック・タチをモデルにしながらアニメーションの魔法によってその最高の瞬間を維持した表情と芝居を付与されたタチシェフの姿かたち。タチシェフと実写のタチがひとつ画面で共演すらして見せるのだから驚く。また、内に確かな骨格を感じさせながら絵であることによって肉感やあざとさを削ぎ落とされ確固としてそこに立つアリスの存在感。ショメは本作で脚色・監督・キャラクターデザイン、作曲を担当している。
 アニメーションあるいは日本特有のアニメを見る時、我々もしくは私はそこにアニメートされた絵であることの快感を求めてしまう。また作る側も自らのアニメーターとしての本能的な欲求に従って、動き(アニメート)の快感をこそ追求してしまう。アニメートという作品制作の手段が目的になってしまうのだ。それが良くも悪くも日本のアニメの現状だ。そしてそこにこそ日本のアニメの価値があるのも事実だ。
 しかしこの『イリュージョニスト』のアニメートはそうしたレベルを超えているのだ。『ベルヴィル・ランデブー』にはまだあった炸裂する動きや飛躍が快感を呼ぶ瞬間はおそらく注意深く抑えられ、アニメートはひたすらに映画を構成する手段となっている。しかも一切の破綻もなく、完璧に優雅に巧みに。
 ジャック・タチという要素が加わったことによって画面は落ち着き、滋味にあふれ、アニメーションと実写という境はもうそこには無い。アニメーションによる映画の、ある種の理想の1つがそこにはある。
 アニメートに代わって自在なのはカメラワーク。それはデジタルによって初めて本当に可能になった世界。タチシェフの乗った列車を写すカメラがふと三脚を離れ、ふうわりと緩やかに高く高く天へ、神の視点へと昇って行く、その感覚の敬虔さ。これはまさしくジャック・タチと今は亡きソフィに捧げられた映画なのである。
 そしてこのような大人のためのアニメーション映画が作られ、制作スタジオの維持が可能なフランスアニメ界の豊饒さを思う。ポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』、シルヴァン・ショメ監督の『ベルヴィル・ランデブー』、ミッシェル・オスロ監督の『キリクと魔女』『アズールとアズマール』、マルジャン・サトラピ監督の『ペルセポリス』等、日本で公開された長編アニメだけでも内容は深く表現は多彩で示唆に富んでいる。もちろんフランス一国に限った話ではないが。
 翻って我が国は「クール・ジャパン」「輸出の最良コンテンツ」と自画自賛しながらも、こと長編アニメに限ってみれば数少ない例外を除いて、一歩引いて見ればどれも大同小異に映る。近年では特に見た目もストーリーもシークエンスやモチーフもスタジオジブリ、特に宮崎駿監督作品のそれに似たものが増えている印象を受ける。それが時代の要請と言えばそれまでだが、そうした傾向は作品の縮小再生産化につながり、アニメ界全体の低下にもつながる。作画の海外発注の増加等、自国内の制作システムの空洞化が叫ばれて久しいが、その器たる作品そのものに危機的状況が忍び寄っているのだ。子供向けも青年向けもいい、子供から高齢者まで万人向けもいい。しかし純然と大人が大人に向けたアニメがあったらもっといい。アニメと共に育った世代は既に充分な年齢に達している。素地はあるのだ。どこかに突破口があって欲しい。毎年何本もの劇場長編アニメが公開されるアニメブームを単なるイリュージョンに終わらせて欲しくない。優れた1本の長編アニメ『イリュージョニスト』はそんなことまで思わせてくれるのだ。

※初出:『ビランジ』28号(2011年9月発行、発行者:竹内オサム)
※『イリュージョニスト』(日本公開2011年3月)
 『ベルヴィル・ランデブー』(日本公開2004年12月)

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