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春も薄れて

春が春らしさを徐々に失い、心は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。けれど気がついてみればそこは、やはりただの空虚だった。
もう春の夜を思い出すこともない心では、週末の予定も、毎晩の夢も、憂鬱すらも、自分で思い描くことができなくなった。
ただ、外界からの刺激に反応するだけの死体となっている。死体は動かないか。まあいいや。

そろそろマズいかもしれない、とぼんやりと思う。
最近、交友範囲を徐々に狭めてきた。誰かの言動の一つ一つに、一喜一憂したくはなかったから。心が狭くなったのか、「合わないな」と思う昔の友人が増えた。友人を一人、また一人と他人にカテゴライズしていった。他人が何をしていたって知ったことではない。他人が何を言っていたって、気にする必要はない。
あまり外に出なくなった。花粉の所為だけではない気がする。きっと夏になっても、また以前のように外に出ることはないだろう。
いつからか何かが外れた頭か、あるいは心は、一向に元に戻る気配がない。塑性変形。あるいは不可逆的な変化となったのかもしれない。もう元には戻れないのかもしれない。
そろそろマズイかもしれない、と俯瞰しながら、転げ落ちてゆく自分自身を止めることができない。本質的な壊死にずっと対処できないまま、明日も仕事に出てはへらへらと笑う。そんな日々が続く。最近、定時を過ぎたら仕事が全く手につかないようになった。何かを生み出せない。

先週の金曜日。珍しく、空よりも街灯の方が気になった。



そういえば5月の連休のこと。
思い立って、ずっと気になっていた深川辺りの資料館をいくつか巡ってみた。連休の最初に門前仲町まで出て、その街並みが気になっていたから。深川から両国を経て、神田まで当てどなく歩く。少しだけ人間らしさを取り戻したような感じがしたものだった、あの時は。
東京の街を、部外者ではなく、そこに生きる一人として見つめてみたい。そんな願いにも似た欲求は自分の中で、薄れることなく形を保ち続けている。

深川江戸資料館
影が濃くなってきた季節
隅田川沿い
怪訝な顔をしながらも、写真を撮らせてくれた

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