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はじめての「パレード」

2週間前、会社の先輩から、東京レインボープライドパレードに誘われた。
正直、構えた。

東京レインボープライドパレードとは、LGBTQなど性的マイノリティへの理解を求めるパレード。今年で10回目を迎える。
PARADE | 東京レインボープライド2023 (tokyorainbowpride.com)

半年前まで、マイノリティーをテーマにした番組制作に関わっていた。
障害者、外国人、部落、そして、LGBTQもテーマに入る。
でも、自らLGBTQに関する企画書を書いたことはなかった。

「不勉強」であるという、コンプレックスがものすごく強いんだと思う。

私と「LGBTQ」の距離感

大学時代、「友達」と呼ぶには遠い、知り合いが女性から男性へと変わっていった。たまにSNSで投稿されるその様子をみて、自分らしさを得ていく姿はすごいいいことなんだなって思う反面、とまどっていたのは事実で、久しぶりに会ったときに、どうすればいいんだろうと思って、そんなに話せなかった。

東京勤務時代、バーで隣に座った男と口論になったことがあった。(そのときのブログはこちら。“What do you think about LGBT?”-「LGBTについてどう思う?」
わかんないくせに、わかったふりをしてるのもこわいし、
LGBTQを受け入れない人を説得するほどの言葉を、私は持ち合わせていないし、今でもどうすればいいのかあまりわかってない。

大阪勤務時代、自分からはLGBTQの番組提案を書かなかった。
でも、ドラァグクイーンでゲイの仕事仲間の方がいて、「知らない世界だからこそ、知らないと…」と少し構えながらお店にも行った。
楽しかったなと思いながら帰った。
チーム内には、当たり前にトランスジェンダーの先輩がいた。
先輩は、いつもものすごいフットワークが軽く、ほがらかで、去年は同じチームでほんとによくいっしょに働いた。構えることなんて、全然なかった。

そんな先輩から、パレードに誘われた。1回目はやっぱり構えてしまい、スルーしてしまったのに、2回目も誘われた。
どうして2回も誘ってくれたのか分からないし、聞けない。
そして、やっぱり構えた。
いっしょに仕事するのも、ごはん食べるのも当たり前に考えることなんてないけど、なにかを主張するのは怖い。
とはいえ、2回も先輩が誘ってくれるし、計らずしも、マイノリティーの番組にいて、せっかく東京にいるのだから、行ってみようかなと。

私にとっての「パレード」の意味

パレード参加者の待ち合わせの代々木公園に向かうため、明治神宮駅から地上へ向かう。東京勤務時代に何度も通った道だから、すぐ着くと思っていたら、ものすごい熱気だった。

横断歩道で、レインボーフラッグをヒーローマントのようにはためかせるものすごくスタイリッシュな人が渡っていた。
目が奪われた。
ここは、NYのファッションショーなんじゃないかと。
その人はすぐ見えなくなって、私もまた待ち合わせ場所へと急ぐ。
会場は、さらに熱気に包まれていた。
こんなにもパワーがあって、こんなにも人が集まるのかと。

私は、それから、ものすごく主張するものがあるわけでもないくせに、誘われたからという理由で、旗を振って歩いた。

当事者でもなく、ものすごくアライでもない。
すべての人がもっと生きやすくなればいいな程度。
だからこそ、一体自分は何者なんだろうと、なぜここにいるのかと、思いながら歩いていた。

沿道では、道行く人が笑顔で、「Happy Pride」といって手を振り、ハイタッチをしてくれる。
大人も子供も。
日本人も外国人も。
少し年配の同性のカップルなんかもいた。
いろんな顔が通り過ぎて行った。

歩いてみて思ったことは、
なにかを主張して、アピールしてるのは私じゃなくて…

むしろ、私が迎え入れられているんじゃないか。

あと、私はなんのプライドがあるんだろうかと。

もうひとつ、じゃあ、この熱量はLGBTQだからこそなんじゃないかとも思った。障がい者は?外国人は?部落ルーツの人は?在日朝鮮人は?
なんでこんなポジティブに、そしてたくさんの人が参加するパレードがないんだろう、あってもいいのに…

そんなことを思った、はじめての「パレード」だった。

【4/24(月)朝 加筆】
寝る前、ふとなんで私はこんな気持ちになったのか考えた。
多分、大阪勤務時代のマイノリティーをテーマにした番組を制作していたときの影響が大きい。

日々、自分が、無自覚にのうのうと生きていて、マジョリティーの中にいて、無意識な発言や思考が誰かを傷つけていたことを突きつけられた。
怒られて、責められたことがあった。

だから、多分、パレードに構えたし、受け入れられたかのようで、安心もしたんだろうなと。同時に、その安心も、この記事も無自覚にまた誰かを傷つけている怖さがまた忍び寄ってくる。

こんな話を同僚にすると、「どこまでいっても完全に理解することはできないし、それはマイノリティーに限らず、他者と他者なら仕方ない」と。
確かに、そうよね。
当事者でもないし、その当事者もグラデーションもある。完全に理解なんてできないのに、ずっと理解することが求め続けられる気がしてしまって、マイノリティーをテーマに番組制作することが今はしんどくなってしまったんだろうな。


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