見出し画像

東京2020大会は「成功」しない

東京オリンピックが始まる。
小池都知事は、今日の都議会で「なんとしても大会を成功させる決意を新たにした」と述べた。
だが僕は、たとえ五輪による感染拡大がなくても、どれだけ感動する五輪になったとしても、この大会が「成功」だと言い切れるなどということは、もはやないのではないかと思う。

東京2020の諸問題

五輪に至るまでの経緯は、ジェンダー差別や路上生活者の排除を始め、この国の社会に存在していたいくつもの問題をあぶりだした。
表では「おもてなし」を掲げて諸国のアスリートを出迎えながらも、その裏では名古屋入管でウィシュマさんが死亡した問題をはじめ、入管行政の非人道性が問われている。
オリンピズムを理念とするオリンピックの開催国として、果たして日本は適格なのか。

また、開催都市への負担の問題もある。それは膨らみ続ける開催費用、そこに注ぎ込まれる税金ばかりではない。
例えばコミックマーケットは、五輪でプレスセンターとして使用される東京ビックサイトの東展示棟が貸出休止された影響で、2019年から4日間開催を余儀なくされた。
通常3日間だった開催日程を4日間に変更するのは準備会としても相当な苦労があったようだ。
実際、一般参加者の入場料の有料化も行われた。

そして何より、コロナ禍において大会を安全に開催できるのかという懸念は、多くの専門家からの指摘があるにも関わらず払拭できないままでいる。
緊急事態宣言下での東京で開催されるということが、市民への矛盾したメッセージになってしまっていることも否めない。

五輪に関わる諸問題は一度にここで取り上げきれないほど多様であり、一つの問題を取り上げてみてもたくさんの議論を尽くさねばならないボリュームがあると思う。
そして、こうした諸問題のいくつかはメディアにおいても議題設定され、今も市民の間では東京2020大会への賛否が分かれている。

例えば、この大会を開催すること自体が市中での感染拡大を招く危険性を危惧する向きもある。
だが一方で、無観客で感染対策ができているのならば開催してアスリートを応援しよう!という人もいるはずだ。
そして、そのように賛否が分かれること自体は決して悪くないことだと思う。
広く開催の是非が問われる中で、ひとりひとりが自分の中で情報を噛み砕き、五輪のあるべき姿について見つめ直した上で、賛成あるいは反対を表明することは、むしろ良いことだと考えている。
だから僕は、ここで上に挙げた諸問題を並べ立て、ただちに反対であると述べようとしているわけではない。


五輪を進める主体の不誠実さ

それでも僕が今大会の「成功」がありえないと思うのは、五輪開催に関わる政府・東京都・大会組織委員会・IOCがひたすらに不誠実であるから、ということに尽きる。
ここまでの彼らの対応は、ただただ不信感を抱かせるものでしかなかった。
つまり、市中でいくら開催への意見が交わされていても、彼らはまともな議論の俎上に乗ることすらしないのだ。

彼らは、コロナ禍での五輪開催を不安視する市民の声にまともに向き合ってこなかった。
菅首相は国民の安心安全を守るのは自分の仕事だと言っておきながら、感染対策の実効性/「安心安全」の基準/責任の所在について質問が飛ぶとぼやかした回答を返したり、論点をずらしたり、とても納得のいく説明は出てこなかった。
一方で聞いてもいない思い出話を突然持ち出したかと思えば、「コロナに打ち勝った証」だの「心のバリアフリー」だのといった精神論で乗り切ろうとする。

五輪となれば、感染症対策の専門家の声にも耳を貸さない。
尾身会長が大会のリスクについて会見をした際は、橋本聖子組織委会長は「今回中止ということが尾身会長からも提言にはありませんでしたので」と勝手に解釈を捻じ曲げた。
丸川大臣は、尾身会長の懸念を「全く別の地平から見てきた言葉」と足蹴にした。

小池都知事は五輪に関して表に立とうとする気すら感じられない。
IOCは人びとの声を聞くどころの話ではない。バッハ会長は先日の総会で、「日本人の忍耐強さを示す大会になる」と勝手に「日本人」を語った。
いったいどこを見て喋っているのか。


誰も答えない「なぜオリンピックだけ?」

例を挙げればきりがない。
責任の所在ははっきりしないのに、しかしどの主体も「開催ありき」で突っ走る姿勢は変わらなかった。反対の意見には応答することすらしない。
そして誰も、「なぜオリンピックだけ許されるのか」という問いには答えない。答えられないのだ。

フェス、ライブ、運動会、授業、サークル活動、実家への帰省。
コロナ禍で制限された僕たちの活動は、その規模の大小に関わらずどれも等しく尊重されるべき営みであるはずだ。
なのに、なぜオリンピックでだけ特別にレギュレーションが緩められるのか。
答えられないはずである。
彼らの口に出せない答えは、「あなたたちの暮らしよりオリンピックが大事だからです」だからだ。

けれど、もしかしたらいっそそう言ってくれたほうが良いのかもしれない。なあなあの答えでお茶を濁され続けるよりましかもしれない。
何よりの問題は、説明責任を果たそうとしないその姿勢だと思う。


説明責任は果たさず、文句と精神論は吐く

日本の市民は、五輪のためにさまざまなコストを払ってきた。
それは経済的負担だけではなく、住まいであったり、議論のリソースであったり、公正感であったり、そしてコロナ禍においては健康と生命であったりする。
その支払先が望まれない大規模イベントであるならば、少なくとも五輪開催に向けて動いている主体には納得のいく丁寧な説明をする責任があるはずだ。
だが、彼らは机上の空論的なぼやけた答えと精神論で説明を尽くしたような顔をして、開会式のVIP席に座っていた。

一方で、自分たちに寄ってきてくれるメディアや記者があると、反対する人を指差して「非科学的」だの、「後世の恥」だのとぽろっと言ってみたりする。
なぜこれほど今回の開催に疑義が投げられてきたのか。
感染対策への不安が拭え合いのはもちろんだが、何より彼らの開催ありきの不誠実な姿勢が不信感の根源であることに気づいていない。

https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/06/23/kiji/20210623s00048000151000c.html
https://diamond.jp/articles/-/274615


この五輪を「成功」と振り返れるはずはない

要するに僕たちは徹底的に、なめられてきたのだ。
「どうせ開催されれば、反対している奴らもこっち側になびくだろう」と軽視されてきたのだ。
であれば、僕たちは怒らなくてはならない。問題を指摘しても、感染拡大への不安を投げかけてみても、政府も東京も組織委もIOCもまともに対話をしてくれない。
こんな五輪、歓迎できるはずがない。

東京2020大会は、たくさんの犠牲と、欺瞞の上に成り立っている。
説明責任がほとんど果たされないまま、勢いだけで開催まで漕ぎ着けてしまった。反対意見や不安の声が黙殺されてきた。
この時点で、今大会が今後どうなろうと「成功」と振り返ることなどできないはずだ。


これから五輪をどう見るか

これから競技が次々と始まる。当然選手たちに罪はないし、競技では十二分にパフォーマンスを発揮してほしい。
一方で、今大会に参加することには、選手にも一定の責任が生ずるものであるとも思う。
このような大会になってしまった以上、どんなに素晴らしいシーンを見ても「でもなあ…」という微妙なキモチワルイ感覚を抱かざるをえない。

でもそれでいいのだと思う。
そのキモチワルイ感覚に内包する広く深い社会の諸課題は、大会が終わった後も日本の宿題として残されている。
五輪をごり押しした人たちが狙ったとおり、感動と興奮でこれまでの不公正な経緯を忘れてしまうわけにはいかない。
すっきりしないモヤモヤとした感覚を抱えたまま、これからの五輪を見ていこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?