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ほんの立ち話くらいのこと

4月○日 気づいたらそんな仕事ばかり選んでいた


いよいよゴールデンウィークらしい。


なんだか他人事のようだが、じっさいのところまったくもって他人事である。


ふりかえれば、これまでいくつか仕事を変えているがゴールデンウィークに休んだという記憶がない。


ひとが楽しく時間をすごすための仕事ばかり好んで選んできたのだからそれも仕方のないことだ。とうの昔にあきらめている。


仕事は面倒くさいこともある、というか大半は面倒くさいことばかりだけど、それでも笑顔の人びとを見ると救われる。


むしろどんなに休みが多くても、不機嫌な人やしんどそうな人ばかり相手にするような仕事はちょっと自分には続かないかもしれない。

4月○日 美しい町の〝あった〟ところ


休日の朝、墨田川の河畔にやってきた。

力強いシルエットの永代橋


きょうは清洲橋の北、ちょうど清澄白河の対岸あたりにする。


住所でいうと中央区日本橋中洲。


いまとなっては想像もつかないが、細長い三角形をしたこの土地はその名の通りかつては墨田川の縁に浮かぶ中洲だった。

優美なシルエットの清洲橋

そして、この土地を舞台に書かれたのが佐藤春夫の『美しい町』という小説だ。

主人公は若い建築技師で、ある金満家からの依頼を受け、この場所に小さなユートピアをつくるべく奮闘する。


夜更けまで働きながら、それでも彼は充実した日々を過ごしていた。


もちろんと言うべきか、けっきょくこの計画は実現せずに終わるわけだが、それでも主人公はそのことにかならずしも落胆しないばかりか、爽快さすら感じるのだった。


それは、墨田川に浮かんだ花びらのような美しい町とそこに暮らす人びとの息吹きを、そのときたしかに現実のものとして感じながら仕事していたからではないか。

それはともかく、初夏というかすでに日差しは夏そのもの。


かんたんなサンドイッチと水筒にコーヒーを入れ、読みさしの本を持ってベンチに陣取ったまではいいが、とてもじゃないが優雅に読書するような気候ではなかった。


それでも小一時間がんばったが、川鵜がせっせと食事にいそしむ姿を横目に頭がボーッとしてきたため身の危険を感じて撤収。

4月○日 あら?


あら? 日に焼けました?


と職場に着いて早々言われる。


元が白いこともあり、わずかな時間でも馬鹿みたいに皮膚が赤くなる。


週明けの朝から会議が4本。会議をしたところでよけいな仕事ばかりできる。意味がわからない。

4月○日 お灸をすえる


東京、島根、長崎で国政選挙。


下馬評どおり与党にとっては厳しい結果となったが、すべて開票と同時に当確が出るいわゆる〝ゼロ打ち〟だったのにはさすがに驚いた。


というのも、軒並み投票率の低さがいわれていたからである。


投票率が低いときには組織票を有する与党に有利というのが常識だったはず。


投票率の低さと結果とがいまひとつ結びつかない。それが今回の選挙結果の特殊さだった。


つまり、それはこういうことだろう。


これまで所属する組織からの指示に従って投票に行っていた〝従順な〟人たちが、今回にかぎっては投票を棄権した。


今回ばかりは与党に投票するのは気が引ける。かといって野党には入れたくない。


そんな消極的な投票行動が白票というかたちで今回の結果を生んだ。いわゆる〝お灸をすえる〟というやつだ。


日本で稀に政権交代が起こるとき、それはたいがいこの〝お灸をすえる〟パターンである。


だが、それは与党にとってはしょせんボードゲームの「一回休み」程度のダメージでしかない。


そのため、政権交代は短命に終わり二大政党にはいつまで経ってもつながらない。


この一過性の追い風を生かして地力を蓄えるだけの野党がなかなか育たないのがまったくもってもどかしい。

4月○日 大切なものを収める家

ジャッカ・ドフニ。


地名とも、あるいは人名ともつかないこの不思議な響き。


じつは、ウイルタと呼ばれるサハリンの少数民族のことばで〝大切なものを収める家〟という意味をもつ。


そして、その名前をもつ「北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ」はかつて網走市に実在した小さな資料館である。


今回、そのジャッカ・ドフニに収蔵されていたコレクションを紹介した小展示が日本橋高島屋の高島屋史料館TOKYOで開催されている。

ウイルタという民族のことはじつはまったく知らなかったのだが、トナカイを飼いながら白樺でカゴを編み、シャーマンが太鼓を叩き儀式をとりおこなうといった北方の暮らしぶりは、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、ロシアにまたがる「ラップランド」に生きるサーミの人びとと驚くほど共通している。


国境とは? 民族とは? とあらためてかんがえずにはいいられない。


土地があり、そこに暮らす人びとがいる。その生活こそが、ほんらい政治より生物学的な分類より尊重されるべきなのだ。


そして、そこで生きてゆくうえで本当に必要なものだけが集まって「家」をなす。その意味で、ジャッカ・ドフニとは魂の拠り所としての「家」のことであり、また同時に「人生」をいうのではないか。


ミニマリストという言葉はどうにも紋切り型なイメージがあるし、なんとなくパサついている感覚があっていまひとつなじめない。


自分の大切なもの(有形無形のものをふくめて)だけを収めた心安らぐ小さな空間とすこしその言葉のもつ意味を拡張(歪曲?)したうえで、ジャッカ・ドフニ的な暮らしを意識してみるのもよいかもしれない。

いずれこれくらい(+キッチン)くらいのサイズに収めるのが理想(写真はアアルト自邸の子ども部屋)。

5月○日 天皇陛下の自動車のように走る


予定ではもう仕事もすっかり一段落のはずだったのにあいかわらずバタバタしている。


一日職場にいて、けっきょく本当に〝仕事しか〟していない。不本意。

このあいだ〝併読本〟について書いた。


そういえば、武田百合子の『富士日記』なども理想の併読本と言えるかもしれないな、とひさびさに拾い読み。

富士山麓の山荘で、夫である武田泰淳、それに娘の花と3人ですごした日々を淡々と綴った日記である。

パンを持って、お午頃、三人で本栖湖へ行く。途中の樹海の紅葉がすばらしい。右側も左側も紅葉。その中を真直ぐゆっくり走って行く。いつもうなるようにとばしてすれちがうトラックは一台もなく、しいんとした快晴。天皇陛下の自動車のように走る。

武田百合子『富士日記(上)』中公文庫

ほんと最高ですね。


武田百合子の書く文章には、〝滑るように〟なんて紋切り型はけっして出てこない。


〝しいん〟とした快晴の下〝天皇陛下の自動車のように〟走るのだ。


さて、きょうはこれから髪を切りに行き、そのあと人と会う約束がある。朝からちょっとばかり気が重い。


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