僕自身のrootとrouteの物語 第3話 「ふるさとはふるさとでなかった」
古家 淳
第2話「移動しながら育つ」はこちら
僕らが新たに住むことになったのは横浜市内の社宅だった。メキシコに行く前、5年半前に住んでいた川崎の社宅と大した違いはない。僕は幸運にも評判の高い高校に入学することができたが、通学するためにはひとりで電車に乗っていかなくてはならない。9歳までしか日本にいなかったので、生まれて初めてのことだ。出札口で(当時は自動販売機がなく、駅員さんに口で頼んで)切符を買い、行き先の方向を間違えずに電車に乗り、さらに車内でのマナーを守らなければならない。
僕らは日本に帰ってくると同時に、食品も衣類も本やレコードなども、どこに行けば買えるのかゼロから学び直さなくてはならなかった。メキシコでの生活が最初はすべて目新しく慣れないものだったのと同様に、横浜での生活もすべて目新しく慣れないものとして始まった。日本語こそ理解していたが、人々がどのように暮らしているかはわかっていなかった。新たな街には友達もいなかったが、希望だけはあった。だって僕は日本に住む日本人になったのだから。
学力的には、一般枠の入学試験に合格したぐらいだから、不安はなかった。日本の子どもたちに追いつくために、日本人学校での1年半が十分役立っていた。同時に日本人学校の同級生と親しむ術も身につけていたが、そちらの方は日本でフツーの高校生になるためには不十分だったと、やがて知った。
1973年4月、登校初日。家を出て駅に着くと、同じ学校の制服を着た女子がプラットホームで電車を待っているのを見つけたので、「奇遇ですね」と声をかけた。彼女は僕を無視した。それまでに知り合っているのでもなければ僕の行動はまったく不適切だったろうが、そのときはなぜ無視されたのか理解に苦しみつつ、気まずさだけが僕の中に残った。
学校に着き、ホームルームを確かめて教室に入る。新入生が最初にやらされるのは、自己紹介である。出身中学校の名前を言うのは必須だ。「メキシコ日本人学校中学部」と言うと、教室中に無言の違和感が広がった。のちに調べると、その年に海外から帰ってきた高校生は(全世界から、日本全国へ、3学年合わせて)わずかに200人ほど。さらに海外の日本人学校中学部を卒業した資格で国内の高校に入学することができた実質的に最初の学年だった。
自己紹介の次はクラス委員の選挙だ。僕はイの一番に手を挙げ、放送委員に立候補、そのまま承認された。見ているとどの役職にも、ほとんど誰も立候補しない。誰かに推薦されて渋々受け入れている様子。本当になりたくないのだったら、なぜそうと主張しないのだろう?本当はなりたいのだったら、なぜ立候補しないのだろう?
その日のうちに僕のことを「メキシコ」と呼ばわる奴が現れた。うれしくはなかったが、メキシコに住んでいたのは確かだし、それをむしろ誇りにしていたから、表に出すのをいとわなかった。
僕は日本の高校生の間で「変な奴」となった。
僕自身が「日本人になろう」という努力をしなかったこともあるだろう。僕が日本人であることは自明で、そのために努力が必要だとは思ってもいなかった。
メキシコにいた間に「唯一の日本人」という究極の少数派として生きることを経験していたから、みんなと違うことは気にならなかった。日本社会は均質的で同化圧力が強いといわれるが、僕は真逆をやっていたことになる。英語とスペイン語を話せることも、教室の入り口で女子と鉢合わせると先に通していたことも、自分の国籍をたぶん誰よりも強く意識していたことも、きっとみんなと違っていた。
学生カバンの代わりに使っていたのは、メキシコで愛用していた民芸品のバッグ。柔らかくなめしたスエードを革紐で結った本体をジーパンのベルトのようなバンドで肩にかける。そのバンドの付け根前後左右からはそれぞれ数本のリボン(これも革紐だ)が垂れ、1本1本に小さな丸いボタンのような革がいくつかずつ吊られていた。底まで届くフラップにはさまざまに彩色された小さな革をはぎ合わせてステンドグラスのような花模様。見ているだけでウキウキしてくるような、触っているだけで心が温まるような、そんなカバンだ。
中に入れていたノートも日本式の26穴ルースリーフではなく、アメリカンスクール以来使い続けた3穴バージョン。バインダーのリングを開け閉めするたびにバチンと無骨な音を響かせる。日本のものよりやや大きめの用紙が足りなくなると銀座のソニープラザまで行って輸入品を買っていた。
英語の宿題はときに簡単すぎたので、たとえば「イディオムを使った文を5つつくってくること」という課題には5つではなく10にし、しかも全体をつなげると1つのストーリーになるように考え、メキシコから持ち帰った手動タイプライターを叩いて提出した。
その一方で部活は伝統的な日本文化に触れたくて弓道部を選んだ。
結局、僕は日本で外国人のようなものだったのだ。しかし僕は日本人に見えるので日本の人々は僕に彼らと同じようであることを求める。それは無理な注文で、どうすれば彼らと同じようになれるのかも、何がどうずれているのかも、そもそも周りに合わせるべきだと考えられていることも、まったくわかっていなかった。僕は僕でいることを貫くしかできなかった。
そして僕は、「日本に住む、日本人らしくない日本人」になった。日本に住んでいたし、日本人であったはずだが、「日本人らしさ」とはどういうことなのか、わからなかった。
この時期、誰かに「前はどこに住んでいた?」と問われれば当然のように「メキシコ」と答えた。「ふるさとは?」と聞かれたら、「二つ目のふるさとはメキシコ。一つ目についてはわからない」と答えた。スポーツでメキシコと日本の対戦があると、メキシコを応援した。
次回「TCKの仲間とつながる」につづく。
この物語は当初、日本語を解さないTCKの友人を念頭に英語で書きました。日本語版は、それをもとに加筆修正したものです。互いに厳密な翻訳になっているわけではありません。第3話の英語版はこちらでお読みいただけます。
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