僕自身のrootとrouteの物語 第5話 「居場所を見つけた」
古家 淳
第4話「TCKの仲間とつながる」はこちら
20世紀が終わるころ、僕は離婚した。子どもたちも入れて話し合ったところ、彼らは「学校を変わりたくないから、引っ越ししたくない」と言うので、子どもたちは母親とともに横浜に住み続け、僕がひとりで出ていくことにした。引っ越した先は川崎市宮前区のアパート。子ども時代に住んでいた川崎市内であったというのは、その後いくつか続いた偶然の一つ目だ。
数年後、新たな女性と付き合うようになった。彼女が借りた部屋も川崎市内だった。彼女は僕が市内に住んでいることを知っていたが、ほどほどの距離で離れているところがいいと、中原区を選んだ。ところがこれが最大の偶然。その街は、僕が川崎で住んだ最初の場所のすぐ近くだったのだ。僕が幼稚園に入る前からバッタや蝶を追いかけたり土手を滑り降りたりしていた河川敷(第2話の写真を見てほしい)、母が買い物に使っていた商店街。僕は母に「住んでいた場所を具体的に覚えている?」と聞いたが、どうやら僕の新しいパートナーが引っ越してきたアパートとは駅を挟んで反対側のようだとしかわからなかった。
そしてさらに数年がたち、宮前区と中原区、二つのアパートの家賃を払うのがバカバカしくなって、二人で一緒に住める部屋を探すことにした。購入することはまったく考えず、借家を探していたのだが、不動産業を営んでいる友達が「それなら買っちゃった方がいい。いい物件を見つけてあげるし、ローンも組んであげる」と提案してくれた。その約束どおり紹介された物件は彼女が住んでいたアパートの目と鼻の先!僕も彼女も外観を見知っている中古のマンションだった。ほとんどためらいもせずに買うことにしたが、僕よりもだいぶ若い彼女に、僕が死んだあとも住処を遺したいという思いが大きかった。2011年、僕は初めて家を所有した。
僕も彼女も呑んべいである。夕食を自分たちで料理することはあまりない。地元の飲み屋に出かける。そういう店は何軒かあるが、なかでも1軒には週に3〜4回も通っている。夫婦二人でやっている小さな店で、大将は地元の中学校の出身。かつての同級生・同窓生や、その親世代も通ってくる。なかには市会議員もいるし、町内会のボスたちもいる。地元を離れたことがない人もいれば、それぞれさまざまな文化背景を持っている人がいることも、だんだんわかってきた。僕らはこの店で常連の仲間入りをし、街を歩いていても数多くの人と挨拶を交わすようになった。彼女は店のママに誘われてお神輿を担ぎに行ったこともあるし、近辺で工事があれば何が行われているかの情報もすぐ耳に入る。
この街が好きになった要因はもう一つある。川崎にはJリーグのクラブがある。歩いて数分の距離にあるスタジアムに僕らが初めて行ったとき、試合には負けたが、ブラジル人選手アウグストに魅了された。プレーぶりもさることながら、最後まで笑顔で観客に手を振り続けていた姿に惚れた。以来、さまざまな選手を知ることになるが、知れば知るほどチームが好きになった。その川崎フロンターレは、コロナ禍の前には10年連続で「地域貢献度1位」とリーグから表彰されている。選手と町の人々との距離を縮め、地域に愛されるクラブを目指しているのだ。
僕自身、彼らの川崎を愛する姿勢に共鳴して熱心なサポーターになった。いつもの居酒屋に行くと、常連の誰彼が「フロンターレ、やっと勝ったね」などと声をかけてくる。
僕は、パートナーとともに、地元の人々とともに、いま、ここが僕の居場所だと言える。
完
この物語は当初、日本語を解さないTCKの友人を念頭に英語で書きました。日本語版は、それをもとに加筆修正したものです。互いに厳密な翻訳になっているわけではありません。第5話の英語版はこちらでお読みいただけます。
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