僕自身のrootとrouteの物語 第2話 「移動しながら育つ」
古家 淳
第1話「家族の物語」はこちら
父は、最初は電池、やがて半導体の製造に携わるエンジニアになった。工場から工場へと転勤するにつれて町から町へと引っ越しを繰り返した。静岡県浜松市の近く、神奈川県の鎌倉市、川崎市・・・・・・。
僕が生まれたのは1957年だ。母は実家に戻って出産することを選んだから、生地は熊本ということになる。3か月ぐらいで鎌倉に戻ったと聞いた。
僕自身の最初の記憶は川崎市内で2か所目に住んだ家(最初はいまでいう中原区、2か所目は幸区)でのものだ。父が勤める会社の社員寮で、敷地の入り口近くには集団就職の女性たちのための食堂などを擁する大きな建物があり、その奥に4階建てのアパートが並んでいる。手前は女子寮で、いちばん奥が家族寮だ。幼稚園児の僕にとって、自分たちの住む建物から敷地の入り口まではかなりの距離だった。毎朝そこまで出かけて幼稚園の送迎バスを待つのだが、ある日なぜか僕は遅刻してしまった。あわてて家を出たが、バスは無情にも僕の目の前で出発してしまった。次のバス停まで僕は全力で走り、そこでも遅刻した子がいたのか、バスに追いつくことができた。しかし閉じたままの扉を叩いても誰も気づいてくれない。開けてくれるまで力の限り叩き続け、ようやく乗せてもらうことができた。
2つ目の記憶の中でも僕は走っている。走ることが好きだとは言えない僕にとっては不思議な感じもする。それは1964年、僕が小学校1年のとき。東京オリンピックが開かれ、マラソンが行われているその日、僕は学校から1キロほど離れた家まで走って帰った。途中に電器店があり、ショーウィンドーを覗くとテレビの中でまだ選手たちが走っていた。それに力を得て走り続けた僕は、たぶん選手たちの誰よりも早くゴール(僕にとっては家)にたどりついた。
僕が4年生になるころ、父は海外出張によく出かけるようになった。日本の産業が国際化し始めた時代である。狭い社宅の我が家に外国人の客が来たこともある。僕が外国人と出会った最初だが、母は当時我が家ではぜいたく品だった肉料理で彼らをもてなした。途中で肉が足りなくなり、僕が追加を買いに行かされたことも覚えている。
やがて父はメキシコシティに転勤を命じられた。そこで半導体製造工場を建設するのだ。僕と妹、そして母とは、しばらくたってからあとを追うことになった。父が不在だった間、何度も繰り返し見た悪夢を僕は覚えている。僕がかつて幼稚園バスを追って走った道の片側には、ドブ川が流れていた。幅2メートル、深さ1メートルほどだっただろうか、フタはなく、そのかわり地面と同じ高さに幅10数センチほどの梁が2メートルおきぐらいに渡してある。やんちゃな子どもたちがその梁を渡ろうとするのだが、渡りきってもそこにあるのはただの壁だ。ドブ川を流れる水はいつも黒ずんでいて、まさにドブのような臭いを漂わせていた。僕の悪夢の中ではいつも、父がこのドブ川から髑髏の姿になり、どろどろになった背広を着て現れた。そのうつろな眼窩を見て僕は泣きながら飛び起きたものだ。
僕が生まれて初めて飛行機に乗ったのは1967年7月7日。カナダのバンクーバーを経由してメキシコシティに着いたのは同じ日の夕方。やがて何度も体験することになった時差というものを初めて知った。父は僕らのための準備を十分に整えてくれていたが、そのすべてが僕にとっては初めてのものだった。父は運転免許を取り自家用車を持っていた(日本では運転をしていなかった)。川崎の社宅より何倍も広いアパートを借り、メイドさんも雇っていた(当時の日本のサラリーマン家庭ではあり得ないことだ!)。空港からアパートまで、深い森の中を抜ける大通りを父の車で走るのはまるで幻想のようだった。
メキシコでの生活について語ろうと思えば、いくらでも話がある。しかしここでは「居場所」ないし「ふるさと」に関わるものだけを記そう。
日本人の数が少ない外国に住み、まったく日本人のいないアメリカンスクールに通うなかで、僕は自分が日本人だという意識を強く持つようになった。学校で真珠湾攻撃について学んだときは日本側の立場を説明したし、街を歩いていてメキシコ人の子どもたちから「中国人!」と呼ぶ声が聞こえると「日本人だ!」と言い返した。1968年にメキシコシティでオリンピックが開かれると、我が家は総出で日本チームを応援した。サッカーの3位決定戦で日本が地元メキシコを破って銅メダルを獲得したことは誇らしかったし、その日を限りに街の人々が日本人を呼ぶ代名詞が「Mifune(三船敏郎、映画俳優)」から「Kamamoto(釜本邦茂、サッカーチームのフォワード、この大会の得点王)」に変わったのはおかしかった。
メキシコに住んでいる間に、僕は「メキシコに住み、アメリカ人の考え方を一部身につけた日本人」になった。まさに文字どおりに、一言一句、である。僕はメキシコに住んでいたし、アメリカのカリキュラムに従って英語で学んでいたし、それでも日本人であった。そのどれか1つではなく、3つ全部を合わせて僕だった。
アメリカンスクールに通って4年後、僕は新設されて間もない日本人学校に転校した。中学校2年の夏休みだった。家では何回も、中学を卒業したらどうするかという家族会議が行われた。アメリカンスクールに戻って高校まで終えるか、日本に帰って高校に入るか。当時カナダに伯父がひとり住んでいたから彼の世話になる選択肢もあった。高校を出たあとは? 大学はアメリカ、日本、カナダ、メキシコ、あるいはどこか別の国で?
中学3年になるころには、父の帰任も1〜2年後だろうと予測できるようになっていた。母と僕と妹は、僕の高校受験に合わせて日本に帰り、父は任期が終わるまでメキシコに残ることになった。
僕らが帰国したのは1972年の12月。
次回「ふるさとはふるさとでなかった」につづく。
この物語は当初、日本語を解さないTCKの友人を念頭に英語で書きました。日本語版は、それをもとに加筆修正したものです。互いに厳密な翻訳になっているわけではありません。第2話の英語版はこちらでお読みいただけます。
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