アメリカで出会った ぐるるな仲間たち 第5回
By やよい
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いまから30年以上も前のアメリカで、職業訓練校のESLに通った私は、世界各国から移民や難民としてやってきたクラスメイトたちと出会い、それぞれの背景をうかがい知ることになりました。あくまでも自己申告ではありますが。
小さな教室で、少しだけ世界を知る③
ブルガリアから来た若い女性シモーナが、「これすごく暖かいの」と愛用していたのはナショナルチームのマークが入ったジャンパーでした。フィギュアスケートの代表選手だったそうです。幼いころに喘息を持っていたので医師の勧めで治療を兼ねて始めたとか。氷の上は空気がきれいで体にいいというのがブルガリアでは一般的な認識だそうです。
「それほど強い国じゃないし、オリンピックには年齢の関係もあって出るチャンスはなかった」とのことでしたが、誘われていっしょに滑りに行くとさすが元代表選手。人が多いからジャンプはできないと言いつつもスケーティングは別格で、少しスピンをすると注目を集め「教えてほしい」と人が寄ってくるほどでした。私もスピンの仕方を教えてもらい、熱い励ましを受けながら何度も挑戦した末に、たったの1回転半でしたが人生で初めて氷上で回りました。
彼女の実家は第二次世界大戦中にナチスの将校の住宅として使われていたそうで、お祖母さんから聞いたという話を教えてくれました。終戦前のある日、突然ナチスの軍人たちが逃げるように退去し始めたので喜んでいたら、「もっと怖いものが来るぞ」と言われたそうです。そして、入れ替わりにやってきたのはソ連軍だったと。
また、彼女はこんなことも言っていました。「日本やアメリカはなぜ進歩を急ぐの?私たちは変わりたくないのに、勝手に世界を変えないでほしい。技術開発競争は迷惑だ」と。努力や成長をよいものだと信じて疑わなかった私にとっては思いもしなかった価値観で、一瞬虚をつかれました。でも言われてみれば「なるほど」と妙にすんなり納得もできました。そして、年を重ねたいまはもっとよく彼女の気持ちがわかるような気がします。
ベトナム出身のナンシーは日本に住んでいたとしても違和感のないような、まったく普通に見える初老の女性でしたので、「私はアメリカのスパイだった」と聞いたときにはびっくりしました。ベトナム戦争時代、小さな食品店を営みながら情報を流していたというのです。そして、軍が撤退するときにアメリカ大使館に逃げ込んで屋上からヘリで脱出したのだと、手に汗握る逃走劇を淡々と語ってくれました。
外見からは想像もつかないドラマチックな話にクラス中が盛り上がり、私もつい「ほんと?すごい!映画みたいね」と言ってしまいました。そのとき、「本当のことよ。全部映画の話だったらいいのにね」と笑顔をつくろうとした彼女の表情に、はっとさせられました。戦争は物語ではなく現実なのです。ベトナムに娘を残してきたそうで、電話はできるけど会いには行けない、孫にも会いたいと言っていました。その後、会うことができていたらいいのですが。
(第6回につづく)
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