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マジカル・ポチポチ

僕が物語を読むときは、

わかっていない僕を、

見いだそうと思ってる。

逆に、

わかってる僕、というのは、

やめておこう、と思ってる。

なぜなら、僕にとって、

わかってる、は、

連想ゲームみたいだからだ。

連想ゲーム。

例えば、マジカルバナナ、

連想でその場を繋いでいく、

そんな、子供のゲーム、

そんなものを、僕はよく、

Twitterなんかで、見かける。

例えば、小説やら、映画やら、

例えば、殺人事件やら、社会問題やら、

そんなこんなを、ネタにして、

僕の私の、連想ゲーム。

マジカルバナナ、マジカル物語、

マジカル事件、マジカル問題、

なんでもありだ。

でも、その、なんでもありを、

TwitterなどのSNSは、

生み出してしまった。

僕の連想、私の連想、

それらを、指先ひとつで、

簡単に、産み出せる。

それが、現代だ。

なので、今時は、

連想に価値なんてないのだ。

だって、誰でもできるから、

だって、誰でもやってるから、

それが流行なのだ。

でも、それでいいのだろうか?

物語や、事件や、問題を、

手近な物事に結びつけて、

お気軽手軽な、連想ゲーム。

そんなことで、いいのだろうか?

だって、そんなことで、解決するのか?

その問題は?

その物語は?

連想ゲームでは、どうにもならないから、

だから、それは、

問題なのだ。

物語なのだ。

だから、それを、わからないといけない。

わからない、という形でだ。

だから、僕は、何事も、

わからない、と思おうとしてる。

だって、それが、

わかるための、第一歩だからだ。

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