宗教アレルギーで科学教徒の皆様へ

 宗教と科学、よく対をなす存在として話題となる両者だが、その本質的なところで実はよく似ている。

私は自分でも驚くほどすんなりと"宗教と科学が似た者同士である"ことを受け入れることができた。

しかし日本では"宗教アレルギー"的に無条件に宗教を毛嫌いする傾向があって、その共通性に目を向けることは少ないようである。

今回は宗教と科学の共通点、相違点についてまとめてみた。


もはや科学教?

 初めに、共通点について考えていく。
一般的に我々が考える宗教といえば、世界三大宗教や日本国内の新興宗教がイメージしやすい。

これらの我々が思う"宗教"のイメージでは、ありえないものを信じてる集団〜くらいだろうか。

一方、科学はどうだ。

それこそもはや"科学信仰"と呼べるほどに、見てもいないのに地球が丸いとか、自転しているとか、理屈も知らず信じている人が大半だろう。

根拠もないのに正しいと信じてるのならば、それはもはや宗教ではないか。

もっと具体的に話そう。

ニュートンによる運動の第一法則には次のようにある。

「物体は力が働かない限り,静止状態であればその静止状態を続け,または運動中であればある一定速度でその運動を続けようとする。」

「慣性の法則」と言われる内容だが、なぜこの法則が成りたつのか、その根拠を問われても"経験上こうなっている"としか答えられない。
そういう風に決めたのだから。
そう、信じるしかないのである。

キリスト教も神が存在するという絶対的な前提のもと論理が組み立てられるように、物理の世界もこの慣性の法則が無条件に成り立っていることを信じなくてはならない。

聖書に書かれていることは正しいとされているので、理由を問うてはならない。

そうであるならば、科学はその"前提"を受け入れる必要があるという点で宗教と共通するところがある

もっと具体例を出そう。

なぜ雨が降ったのか?と問われたとする。

「上昇気流によって運ばれた水蒸気が上空で冷やされて水滴や氷となり、その水滴や氷が増えていき支えきれなくなって落ちてくるから」

「神様に雨乞いしたから」

上の回答は科学的で、下の回答はそうでないように感じるだろう。
しかし論理の構造上は両者とも全く同じなのだ。

簡潔に言えば、上の回答では重力の存在を、下の回答では神の存在を絶対的なものとしている。

そのうえで、論理に沿った回答をしているのだ。
構造だけ見れば、どちらにも優劣はつけられない。

あまり神学に詳しくないが、たいていの現象を"神のせい"にできるなら、非常に一般性が高く汎用に富んでいることから、科学的だと感じてしまう

科学と宗教はどう異なるのか

 宗教と科学の大きな違い、それは再現可能性と反証可能性だと言われている。

再現可能性とは、同じ条件、方法で何かを行ったとき、同じ結果が得られることを意味する。

晴れろ!と祈るより、雨雲に向かってミサイルを打ち込んだ方が晴れるだろう。
祈りで骨折を治すより、街の外科医さんに診てもらった方がよさそうだ。

しかし再現可能性だけでは不十分で、例えば前述の通り"神の仕業"と言ってしまえばあらゆる出来事に一般性、再現性をもつ。

これが科学的かと言われればもちろん否定したくなるわけで、そこに出てくるのが反証可能性というわけだ。

反証可能性というのは、簡潔に言うと、ある仮説が実験や検証によっていちゃもんをつけることができるという意味だ。

例えば天国の存在について、私たちはこれについて何か実験や検証をすることはできない。さらに未来でわかる見込みもない。

つまり天国の存在については反証可能性がないため、これについて考えることは科学とは呼べない。

まとめ

まとめると、再現可能性は科学としての必要条件であり、反証可能性は非科学的なものを避ける条件であるようだ。

しかし重要なことは、科学的であっても世界中の納得を得られるわけではないということである。

いわゆる非科学的な地域、文化圏でも独自の論理体系をもっているため、その人達から見れば、我々の方が"おかしい"人なのだ。

そうなればやはり、異文化コミュニケーション、異文化理解ということを念頭に置きながら、「お互いにお互いをわかり合おうとする姿勢」が重要なのだ。

異文化理解……

ありきたりな結論だが、やはり重要なことだと思う。

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