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【ピリカ文庫】あなたに会いたくて

「テツか。入れ、入れ」

祖父はいつも顔をしわくちゃにして私を迎えた。
その頃、足腰が弱ってきた祖父を心配した母の遣いとして、私はよく祖父の家を訪れていた。

「じいちゃん、これお母さんから。あっためればすぐ食べられるからって。それからさ、お母さん、いっしょに住めないかなって言ってたよ」
独り暮らしの祖父との同居の話は何回か出ていたが、祖父は決して首を縦に振ろうとはしなかった。
「お前らと一緒に住むなんて、窮屈で仕方がない」
そう言ってニヤリと笑う。

私は当時大学生で、長い長い休みの最中。付き合っている同級生のさおりとけんかをして、仲直りできぬまま、さおりは地元に帰省してしまった。最後に会った時にさおりがこぼした涙が頭から離れず、私の胸はチクチクと疼いた。

「じいちゃん、俺さ。彼女とけんかしちゃって」
祖父に向かって突然こんなことを口走った自分に、自分が一番驚いていた。
「仲直りしたいけど、どうしたらいいのかわかんない」
「うん、そんな顔してるな」
祖父はニヤリとしたが、すぐ真顔になって遠いところを見るような目をした。そして、チラシの裏にマジックで何かを書いて私に差し出した。

そこには『A県川島村鉢郷』という地名と、『中島はる衣』という女性の名前が記されていた。

✳✳✳


特急列車を降りた温泉地の駅で訊ねると、『鉢郷』はそこからバスで一時間、山を二つ越えたところだという。
「鉢郷ね、今度ダムになるところでしょう」
初耳だった。
「ダム、ですか」
「そう、あの辺湖になっちゃうみたい。まだ反対してる人もいるみたいだけどね」
喉にざらりとしたものが引っ掛かったような気がした。

――偉くなって迎えに来るってはるに言ったんだ。そうしたらえらく泣かれちまってな。そのまま村を飛び出して、それっきりよ。
テツ、鉢郷に行ってきてくれないか。はるがどうしているか、なんだかとっても知りたいんだよ――

祖父がA県川島村鉢郷という場所の出身であることを、初めて知った。しかも祖父の口から昔の恋話を聞くことになるなんて。どうしてそんな話を真に受けてその村まで行ってしまったのか、自分でもよくわからなかったけれど、祖父の故郷と昔の恋人に好奇心がわいたことは間違いなかった。

『鉢郷』でバスを降りると、山の合間を流れる川の両脇にぽつりぽつりと家屋が見えた。よく晴れた日で、間近に見る山々の雄大さや澄み切った空気に圧倒され、私は立ち尽くした。

『中島はる衣』の捜索は難航した。
「中島さん?さあ、知らんねぇ」
会う人に聞けども、期待したような答えは返ってこない。無理もなかった。祖父の話は六十年も前のことなのだから。ようやく手がかりがつかめたのは、畑仕事をしている夫婦に訊ねた時だった。
「ねえ、これ、河井さんちのばあちゃんじゃないの?確かはるって名前だったね?」
河井家の『はる』ばあちゃんなる人は前年に亡くなったというが、私は男性の軽トラックに乗せてもらい、河井家へ向かうことにした。

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「そうよー、ばあちゃんの名前は『中島はる衣』よ」

河井家には、はる衣さんの姪だという葉子さんという女性がいた。
葉子さんは広い縁側に座って私に麦茶を勧めながら話し始めた。
「隣町の旅館にお嫁に行ったんだけど、合わなかったのかな、戻って来てね。置いてきた息子がいたんだけど、ずっと会えなかったみたい」
仏壇の遺影を見ると、少しだけ八千草薫に似た女の人がほほえんでいた。
「なかなか美人でしょう。いたずら好きのおもしろいばあちゃんでねー」
葉子さんに祖父の話を伝えると、
「へえー、あのばあちゃんにそんなロマンスがあったとはねえー」
と大げさに驚いたような顔をした。そして手紙やらはがきやらがぎっしり詰まった漆塗りの文箱を持ってくると、私の前に置いた。
「ばあちゃんが大事にしていた文箱なんだけど、あなたのおじいちゃんから手紙来てないかしらねえ」
ひとつひとつ見ていったが、祖父が書いたようなものは見あたらなかった。
けれど最後に文箱の一番奥に、出した形跡のない二つの手紙を見つけて、私は胸の鼓動が速まるのを感じた。

ひとつは山田勝男様宛。
ひとつは谷村大治様宛。

「ばあちゃんが書いたんだねえ。山田勝男はばあちゃんの息子だわ。谷村大治って人は、知らんねえ」

「谷村大治は――俺のじいちゃんです」

✳✳✳


その日は駅の近くの小さな温泉宿に泊った。
はる衣さんが自分の息子と祖父に宛てて書いた二通の手紙は、コンビニの袋で包んで、折れないようにかばんの底に入れていた。

温泉に入った後、さおりに手紙を書いた。

このあいだはごめん。
さおりが好きだ。
さおりに会いたい。

書き綴りながら、いつしか涙が流れて、流れて止まらなくなった。その日見た景色や、聞いたことや、色々なことが私の感情をぐちゃぐちゃにした。涙でよれよれになった便箋を封筒に入れ、さおりの実家の住所を書くと、私は外に飛び出して丸いポストに手紙を投げ込んだ。


満天の星空を見上げて、さおり、とつぶやいた私を、虫の声が笑った。





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