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『黒ヘル戦記』を読んだ

 ボサノバが似合うな。テンポのいい文章にそう思う。中川文人著『黒ヘル戦記』(彩流社)。
 本を手に取った時は、そう思ってなかった。キレキレのパンクロックを期待していたのだ。
 中川さんと私は、共通点がある。ノンセクト(黒ヘル)とセクト(私の場合は赤ヘル)の違いはあるが、1980年代(私は1977年から)に新左翼運動をやっていたということだ。
 21世紀も4半世紀近く経とうというの、1980年代がどうしたと言われれば、それまでだ。だからこの先は、興味のある方だけが読んでくれればいい。「新左翼」というのも左翼そのものが縮んでしまって、もう新しいものが出てこないから、いまだに新左翼なのだ。
 1980年代の新左翼に、何の意味があるのか?
 1950年代に始まった新左翼は、1972年、同志リンチ殺人で瓦解した、連合赤軍で終わったと捉えている人がかなり多い。そう思ったほうが、何かと都合がいいのだろう。
 1970年代に新左翼は、同志リンチ殺人以外にも、内ゲバ殺人、市民を死傷させた連続企業爆破、ハイジャックなどを起こし、考えられうるありとあらゆることをやる奴らだ、と考えられていた。
 1980年代の新左翼運動には、そうしたことを踏まえた上で、もう一度、真っ正面から、権力とぶつかる闘争を創り出そうという思いがあった。
 1966年から始まった、三里塚闘争(成田空港反対闘争)は続いていた。農民たちがなぜ反対したかと言えば、事前に何の説明もなく、自分たちの家や田畑が空港予定地になったことを、テレビや新聞の報道で知ったからだ。
 農民たちの根強い反対で、予定の半分しかできておらず、滑走路が1本しかない状態で、1978年、政府は開港しようとした。しかし、開港予定日を前にして、新左翼セクトの集団が空港に乱入。その混乱の中、地下溝に潜んでいた15名のメンバーが管制塔に到達。管制室にまで入り込んだメンバーは、ハンマーで管制機器を破壊した。予定通りの開港はできなくなった。
 新左翼セクトの一つ、戦旗派(荒岱介主宰)の一員として、この広大な空港包囲突入に参加した私は、心躍らせた。この闘争では、機動隊の殺傷そのものを目的としない、という申し合わせがされていた。新左翼セクトの集団は機動隊を圧していたが、これは守られた。亡くなったのは、この闘争を主導したセクト、第4インターの新山幸男さんだった。
 私は、この時19歳だった。この闘争の成功を背景に、権力と真っ向からぶつかる運動を作るという訴えは、そこそこ若者の心を捉えた。数年の間に、戦旗派の隊列は2倍以上に膨れ上がった。そうは言っても、200人台が500人台になった程度なので、たいしたことはなかったが、内部にいると、とてつもない前進と思えた。
 それがおかしくなってきたのは、1983年に三里塚闘争が分裂したことだ。これにはずいぶん長い説明がいる。戦旗派はある意味、分裂に至るトリガーを引いた。拙著『エロか? 革命か? それが問題だ!』(鹿砦社)に、詳しく記した。ちなみに同書では、私の戦旗派での体験と、それを止めてからエロライターになった時期のことを、交互に書いている。こうした形にしたのは、闘争体験を武勇伝のように語りたくなかったからだ。
 私が参加した頃の戦旗派は「農民に学べ」と言っていたが、三里塚闘争分裂後には「自分たち革命党が農民を領導しなくてはならない」に変わった。農民の会議を盗聴することまでが、命じられた。そうしたことがあって、私は29歳で戦旗派からも闘争からも離れた。 
 もう一度、真っ正面から、権力とぶつかる闘争を創り出そうという思いは、潰えてしまった。
 三里塚闘争の分裂の影響は、『黒ヘル戦記』にも書かれている。ノンセクトとセクトの違いがあり、活動の場も中川さんは大学で、私は三里塚現地や各地のアジトだった。それでも、この頃に感じていた寂寞は似たものがあると感じた。
 それでこれは、ボサノバだと思ったのだ。
 そんな時代状況で、描かれている一人一人は哀愁を帯びている。その意味では、時代を超えて楽しめる本である。

※写真は「成田空港 空と大地の歴史館」の展示物


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