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問題は、すでにそこにあったのだった。Netflix「世界は僕を切り裂けない−Questo mondo non mi renderà cattivo」

2度目のコロナ感染は想像以上に辛く、「オミクロンは楽やしもはや風邪」と言う人たちを、ひとりベッドの上で恨んだ初夏。熱が下がってきたところで、何錠もある薬たちに感謝し、気になっていたNetflixのイタリア初アニメーションを見てみることに。

それは、イタリア人漫画家のゼロ・カルカーレの新作「世界は僕を切り裂けない−Questo mondo non mi renderà cattivo」だ。日本ではNetflixで過去作が配信されている。さらに「コバニ・コーリング」という作品が、翻訳家の栗原俊秀さんの訳で出版されており、こちらはまだ手にいられていないのだが、常々気になっていた。

今回の作品は、主人公のゼロの街に難民(35名)の収容センターができたことから始まる。そのセンターは他の街に始めは作られたものの、ナチが中心となった収容センター反対勢力による抗議、警察の介入、センターを守る人々の衝突によってどうにもならなくなり、ゼロたちが暮らす郊外の街へ移動してきた。入管法改正が注目されている日本にとっても、どこか身近な話だと思う。

ゼロたちが暮らす舞台はローマだが、ローマと言ってもそこは郊外。コロッセオやパンテオンなど歴史的建築物が残り、観光客で溢れる華やかなローマとは違い、おそらく環状高速道路GRAの周辺の郊外なのだと思う。団地のようなアパートが建ち並び、治安が悪そうな印象がある。でもそれがローマのもう一つの顔だ。以前、ジャンフランコ・ロッシ監督の「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」という映画を観たけれど、どうにもならない日常の集まりと、それでも続く人生を前に、ローマという華やかな舞台裏を垣間見たような気持ちになった。

私たちは、難民センターが自分の街にできたら、どのような問題を浮かべるだろうか? 治安が悪くなる? 仕事がなくなる? 自分たちの税金が使われる? 本当に問題はあるのだろうか。
物語に出てくる街の人たちも同じように、自分たちの暮らしが脅かされると不安を抱いた。でもその不安は、不安を背負ってやってきた人たちを排除することで解決されることなのだろうか。そもそも人間を排除して良いものなのか? 助け合いとはなんなのだろう?
ゼロは物語の当初から、難民センターを閉鎖しろという人たちに憤りを感じる。それは純粋に困ってやってきた人たちを苦しめることに痛みを感じるから。毎日剥がしては貼られるポスターを前に、どうにかしなければと焦りと怒りを感じていた。
閉鎖を願う人たちはもちろん街の人たちもいるのだが、その根本を作るのはナチを支持する人たちだった。そういう人たちは結局裏社会と繋がっていて、自分たちの身に降りかかっていないのに、難民センターができることがいかに街が悪くなるかを、大きな声でうたう。すると、一般の人たちもその声に賛同するようになる。そこには、かつてゼロの友人だったチェザーレの姿もあった。さらには、良い子のお手本でもあった友人サラの姿もあった。

明らかに、良いと言えない意見を持つ集まりに参加する人々に、私だったら「なぜそう思うのか?」聞く勇気は、ない気がする。もし、そこに友人がいても、「人にはそれぞれ考え方がある」と、悲しい気持ちを丸めて丸めて小さくして、自分を納得させてしまうかもしれない。
でもゼロは聞くし、訴える。こんなのおかしいだろ?って。そうすることで、なぜ彼・彼女が、そういう選択をしてしまったのか、社会的背景が見えてくる。ここでゼロが「境遇が違えば自分も同じ選択をしたかも」とこぼすのだが、まさに私も同じように「そうかあ、そんな背景があったら一概に悪いと言えないよな」と思っていた。
そんな私たちにビンタをし、現実へぐいっと引き戻してくれたのが友人セッコだ。セッコはいつも「ジェラート食べよう」か「鼻血が出る」しか言わないようなキャラクターなのだが、ゼロに真っ直ぐな眼差しで「くだらねえ…(中略)…善悪の区別がつく人間は自分だけだと思ってるのか? …(中略)…お前の作品のネタになるほど、皆問題を抱えてる。でも弱者を追い払う言い訳にしたりしていない」と言い放ってくれるのだ。そうだよセッコ。悪いことは悪い。人にしていいことって、こういうことではないんだ。

だからといって、相手を一つの行動・意見だけで、善か悪か判断してはいけない。でも判断せずに向き合うということが、一番難しいことだと感じる。


母国で暮らせなくなり、私たちの国へ逃げてきた人たち。
その人たちが本当に、私たちにとって悪になることがあるのだろうか?  反対側はたくさんの問題を主張する。彼らがここにきてから始まったかのように。あたかも今から始まるできごとのように。でも問題の大部分は、実はもともとあったものか、種が撒かれていたものなのだ。私たちはその種を知りつつもどうすれば良いかわからなかった。もしくは自分ではどうすることもできなかった。誰かに助けてもらえなかった。その問題は自分でも気付かぬうちに、街にできた難民センターに吸収され、まるで新たな問題かのように装いを変え、自分たちの目の前に現れた。
今、日本で私たちは、それに自ら気づくことはできるだろうか。


物語の中で、サラが言っていた言葉が忘れられない。

「善人でいるための3つのルールがある。質問をしすぎない。一番遅い人に合わせる。誰も置いていかない。」
最後の、ゼロたちのチェザーレへの選択は、このルールがあるからこそ、一歩進んだ。

私たちは、この3つのルールを、日々の暮らしの中でどのぐらい守れているだろう。全部は同時に守れなくても、まず一つからやってみるのが良さそうだ。明日から、何かに出会うたび、3つのルールをそっと頭の中で唱えたい。



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