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不意にドアがノックされる
ああ君か。どうしたの、こんな時間に。なにかあったのかと心配になり聞いてみる。
彼は黙っている。一昨年職場を退職した私は、それ以来彼とはほとんどあっていない。今日は何か悩みでもあってきたのだろうか。そんなに親しい仲ではなかったが、少し人の前に立つのが苦手そうで、会議で何か意見をまとめるときは、わたしのほうを向いて同意を求めてきた。私が目で同意の合図をすると、落ち着いたように意見を発表し会議の中で冷静に意見をまとめるタイプの、どちらかというと自分が前に出ることよりも少し引いて話すタイプだと思っていた。
あらためて彼を見る。今日はすこし肌寒いね。そんなところで立っていないで、なかにはいったらどうなの、と促すと、いえ、ここで良いですという。その声はどこか陰気な感じがした。私に何か紙切れのようなものを差し出してきた。これにサインをお願いします、と彼がいう。その紙には「非常言動処分に関する通知」と書いてあり、私はどうやら何かの処分を受けるようだ。その紙にはマイナス点が書いてあり、今後1年間さらにマイナス点が加わった場合、収監される可能性があるという事が書かれていた。この文書にあるマイナス点となるわたしの言動とは一体何かと彼に尋ねた。それは命令により機密事項にあたり答えられない彼は言う。少し間をおいて、ところでなぜ君なのかと尋ねた。私はもうとっくに職場を離れ、その後も君や君のいた世界とは接触を持っていないのに。彼の腕にはよく見ると赤い腕章があることに気が付く。彼の立場は今一体何なのだろう。彼は顔をあげることはない。何も発しない。誰かの指示を受け、わたしにこの不気味な紙を持ってきた。もし私がサインすることなく彼を追い返せば彼はどうなるのだろう。この通知を発したものは、そんなこともおそらく計算ずくなのだろう。わたしはその紙を玄関の狭い靴箱の上に置かせ名前を書き込んだ。私はいつの間にか不合理な情熱に囲まれていることをこの時初めて自覚した。

おまえは誰だ。私と彼を同列に縛るおまえは。
彼はその紙を受け取り、顔をあげることなく、ではと言い、帰っていった。これは夢ではないのか。そう思いながら自分の掌を見た。汗がじっとりと滲んでいた。


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