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広報にしばらく会っていない旧友の写真が出ていた。じっと見るが、目の所に面影があるが、若いころの決然とした口調で述べるあのイメージはなく、眼鏡の奥は温和な目で、趣味はステレオのアンプの組み立てと語るその雰囲気は、一つの季節が通り過ぎ、その季節の中で風を受け流すことなく、たとえ砕かれても尖った目じりを相手にきっちりとむけてた人間の眼の中に在るとは思えないほど、温和である。
1985年、旧友は国鉄分割民営化に反対する国労の組合員として、「人活センター」という名の隔離部屋に異動させられ、見せしめのために仕事を奪われた。鉄道マンはきっちり人間だ。当局は秒単位の時間通りにすべてが動く世界で生きてきた男たちを、まとめて人活に放り込んだ。仕事がない苦痛をあたえ、音をあげるのを待つ。一切仕事がない監獄同然の世界。椅子に座らされ、点呼され、自由に動くことは許されない。1986年12月、友は助役をにらみつけ抗議した。「どうして私たちはここにいるにか。配置転換の理由を説明してくれ」仲間と一緒に助役に詰め寄った。人垣ができた。突然、助役は一歩下がると「痛い!」と声をあげ、ほかの職員が「助役が殴られた!」と叫んだ。何が何だかわからぬまま、その場で現行犯逮捕され留置所にぶち込まれた。
家族や子どもたちは「お父さんが警察に捕まった」と震えた。しかも傷害罪で取り調べを受けているという。あのお父さんがそんなことをするわけがない。この裁判を支えたのが坂本堤という若い弁護士だ。現地を何度も調査し、助役と友の動きを再現し、けがをしたという助役の診断書を検証し、事実を積みあげ、嘘を見抜き、でっち上げを立証した。
こんな事件があったことも今はもう、忘れ去られている。
坂本弁護士はその後、オウム事件で幼い子と妻もろとも拉致され殺された。小さな正義を掲げ続けることは時に命がけの事がある。
言葉でたたかいつづけることはそういうことかもしれないのだ。
友はその後、裁判に勝利して鉄道運輸機構で定年を迎えた。いまもガザやウクライナの事を地域でニュースを創ったりしていると広報に書いてある。

「慣れちゃいけません」広報にあった彼の言葉だ。

あの日々、むなしく空回りしているように見えた日々は、しっかりと根差したものになったと、今、その言葉でわかる。

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