今日の雑記

小西甚一の日本文学史を形式上ひととおり読んだ。

加藤周一の日本文学史序説に移って読み始めたが、あたまがぐわんぐわんする。小西によって頭の掃除をしてもらったところに容赦なく言葉が打ち込まれる。わたしのような無学な者にもわかりやすく書かれている。西洋との相対化の先をどう捉えるのが適切なのか。

他人によって体系化された軸を基準に、自分の理解したいものを暫定的にあてはめ、理解の速度を上げる。かつて西洋美術史の表面だけをなぞったうえで日本の美術を知ろうと試みたことがあった。それに似た試みを文学(ここでは加藤のいう範囲を文学と仮置きする)においてもやってみようということである。

わたしのような無学のものでも理解できるような日本語で書かれているのがありがたい。わかった気になるのとわかった状態とは明らかに異なるので、いつになればわかった状態に至るのかまったくわからないけれども、学ぶという行為にはそういう一面があるようにも思う。

物事の最表面をふっと撫でる程度の理解しかできていないとしても、理解していない現状からすると少しは進んだことになるような気がする。何にしても、知らないことばかりが世の中にあふれていて、ある程度の日本語を理解できるにもかかわらず日本語で書かれたものをどれほど理解しているかと問うてみると、その殆どを理解していないことに気づく。それどころか、自分の思う「ある程度」の領域の狭さに脱力するしかない。

たとえば、本屋にある本を端から「読んだ、読んでない」と分けていくと
「読んでない、読んでない、読んでない……」となる。本屋から出てちょっと考えてみても、本、本棚、本屋という建物、そこから出たら見える車、道路、信号がどんなからくりで設計され造られているのか、そこにどの程度の人が関わったのか知らない。自分の日常を振り返っても、日々増え続ける新規化合物とその機能に驚かされる。新しい反応経路の発見を見聞きしてただ感心する。遺伝子配列の解明とその機能との紐付けが信じられない速度で為されていく現状に舌を巻く(それはパンデミックによって一般人の目に触れる機会が増えた事実もあるけれど)。一方で素粒子の世界で挑戦されていることに理解が及ばずめまいがする。さまざまな分野のいろいろな事柄を知らないまま日々過ごしている。文学、美術、建築、音楽なんて無学としか言えない(そういうことはたとえば履歴書というものの空欄にいろいろと入れていけば自ずと明らかになる)。日々使っている金銭のことも身近でありながらさっぱりわかっていない。

わからないことを並べると、冗談抜きでどこまでも書き続けられてしまうことに気づいたわたしはこのままだと本当に気が滅入ってきそうなので、もうやめることにする。そんなこともわからなかったのか。どうにも仕方のないことである。気分転換にうたおう。

やねよーりぃたーかーいー こいのーぼおりー 

そういうことである。