見出し画像

文フリ、西日暮里にて

文フリ会場にはあまり居られなかったけれども、こーたさんに、会っちゃった。ウフフ。詳しくはこちら。

しおりをいただきました。

「みんなの居場所、作ってます」
すてきなキャッチコピー。
わたしにとって、ある意味「みんな」のいる場所が澁澤の「日本作家論集成」なので横に置いてみた。


こーたさんとお会いしたのは、メンタル道場つるるとき子書店の前。


そして、あの広い会場、あの人混みのなか、偶然にもお会いできた方々もいらっしゃって。あとからじわじわ嬉しいこの感じ。うれしさ続くこの感じ。



翌日、豆千さんのいらっしゃる西日暮里へおじゃましました。

とき子さんの記事、読んだらみんな同級生。



お会いできた皆様ありがとうございました。

おひとりおひとり、投稿やコメントを拝見したときにふわっと思い出すのは、再会した瞬間の「あっ!」という表情だったり、しぜんとこぼれる笑顔だったり、ちょっとしたときのはにかんだ表情だったり、わたしから見た、飾らないその人。

わたしにとって「その人のイメージ」というのがあって、何度かお会いしても後から思い出す場面はいつも同じものになることが多い。それはあまり更新されない。不思議なことである。いい瞬間を切り取ったカメラマンになったような気分だからかもしれない。

一所懸命におもいだそうとすると、その人のいろんな場面を思い出すことができる。声の調子だったり、そのときに感じた雰囲気だったり、わたしからみた背景だったり。それがあろうとなかろうと、そのひとはいい表情をする才能があるのだ。

いい表情をする才能はみんなそれぞれがかならず持っていて、気持ちに引っかかりのないときに勝手に内側からあらわれるものである。気持ちに引っかかりのないとき、人は自由なのだ。

そういう瞬間にほかの人と過ごせるのはしあわせである。

その瞬間を時間と空間へ広げていったうえ、自分と他人との隔たりを意識することのない心理状態にあるときに人は、その時間と空間と心理状態のかけ合わさったところを「居心地のいい場所」だと感じる。もう少し控えめにいうと「居てもよい場所」であったりする。それは何かの拍子に「我に返る」瞬間までのことである。
ふりかえったとき、それは「みんなの居場所」だったのだと気づく。


この記事が参加している募集

noteでよかったこと