自分宛てのメッセージ

こういう文章がある。

まことに不思議なことですけれども、どんなメッセージであっても、それが自分宛てであるかそうでないかは、差し出された瞬間に直感的にわかるんです。

内田樹の研究室 より

そうですか、それは不思議なことですね。そう思い込んでいるだけではないですか。
むかしの自分ならそう感じたことだろう。ここでいうメッセージとは、電話であるとかメモ書きであるとかeメールとかいう特定の媒体によって個人へ何かしらの事柄を単純に伝達する行為とは異なる。


いくつかのつながりをとおして何人かのひとと話をするうちに「できるかどうかわからないけれど、自分がやるべきだと思った」という人と遭遇する。それは、自分がそのような体験をした人を探しだすのではなく、おもしろい取り組みをする人だな、と思って話を聞いていくと、どうやら同じ文脈に至るのであった。

これまでやったことはないけれど、自分がやらなきゃと思った。

「これをやったら何の意味があるんですか」なんていうのとは無縁の領域で、なぜかわからないけれどその事柄に自分が呼ばれているような気がする。やったことがあるとか実績がどうこうということではなく、理由はわからないけれども、自分の能力が必要とされている感覚。損得とは違って、困っている他人の力になりたいという素朴な気持ち。袖ふれあうも多生の縁、とはこのことかもしれないとも思う。


いまの自分が何をするとかしないとか、いま具体的に誰がどうするとかしないとか、そういうこととはまったく関係なく、出かけた先で聞いたいくつかの事例を思いだして「呼ばれる」ことのふしぎさを思う。


SNSにしばらくいると(良い影響もあるが)どうも良くない影響もあって、ここのところ面倒な気分に沈むことが増えた。情報を選り好みして取り込もうとするのはSNSに限ったふるまいではないけれども、一般的にそのような行動は「知識のタコツボ化」などと言われ推奨はされない。
しかしわたしの場合は逆で、どうがんばったところで人間は自分の経験や母国語からの縛り、あるいは身体能力の届く範囲の外側には行けず、「タコツボ」で過ごすことを余儀なくされるのだから、自分をつまらない事柄から積極的に遮蔽することで、初めて平穏な心持ちに至るように思う。

そのような心持ちにあるときには、わたしも自分宛てのメッセージを受け取ることがあるのかもしれない。そしてそれは出会った瞬間に「あ、やらなきゃ」とスイッチがはいるものなのだ。

自分宛てのメッセージを受信したと思った人間はチューニングする。そうすればメッセージがもっとクリアーに聴き取れるに違いないと思って。直感的に。この直感がすべてのコミュニケーションの根源にあるものだと僕は思います。

同上


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